教育史研究と邦楽作曲の生活

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「教育情報回路」概念の検討(2)―「教育のメディア史」への位置づけから総合性への注目

2015年02月15日 23時55分55秒 | 教育会史研究

 さて、気を取り直して論文の続きです。

 出典を示す場合は以下のように表記してください。
  ↓
 白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日。
または
 白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日(「教育史研究と邦楽作曲の生活」http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2015年2月13~23日)。


 1.梶山雅史の「教育情報回路」概念

(2)総合性への注目―「回路」
 そして、2007年の論文「教育会史研究のいざない」に至る。この論文では、以下のように述べられた10)。

 戦後の教育団体に比して、教育行政担当者、師範学校等の教育機関スタッフ、小学校長・教員そして地方名望家を構成メンバーとした教育会は、日本教育史上全く新たな組織・システムの造出であった。[略]教育会は各地の教育課題への対処をなし、教育事業振興に深く大きな作用を及ぼした。教育会は、地方における教育政策と教育要求の最も現実的、具体的調整を担った極めて重要な存在であったのである。これまで教員史あるいは教育団体史の章、節内で断片的、一面的に取り扱われてきた教育会史研究は、根本的に視点の転換が必要になる。

前半部分は従来主張してきたことを引き継いだものであるが、だからこそ、教育会史は、教員史・教育団体史における断片的・一面的取り扱いでなく、日本教育史において総合的に取り扱う必要があると改めて強調した。そして、「教育情報回路」概念による教育会のとらえ方が示され、次のように根本的な課題が設定された。

 教育会の登場から解散に至る全プロセスを射程に入れて、この教育情報回路としての教育会が各時代に何をもたらしたか。いかなる変化が生じたか。この情報回路のメカニズムならびに回路を流れた情報内容についてトータルにその歴史的意味の解明にとりくまねばならない。

ここでは、2005年の共著論文における「教育会の組織・機能・活動実態」が、「情報回路のメカニズムならびに回路を流れた情報内容」とに置き換えられている。教育会史研究の主要対象であった組織・機能・活動実態が、「教育情報回路」概念によってより明確に方向づけられたものと意味づけられる。かくして、「教育情報回路」概念による教育会史研究の課題は、「情報回路のメカニズム」ならびに「回路を流れた情報内容」の歴史的意味の解明として設定された。ただ、2010年の論文「教育会史研究の進捗を願って」で「『総括的研究』次元にたどりつくには未だ道遠し」と表現されているように11)、この総合的視点による「教育情報回路」概念による教育会史研究はいまだ実現されていない。
 なお、2009年度から日本学術振興会科学研究費補助金(基盤研究(B))による梶山雅史代表の共同研究として、「1940年体制下における教育団体の変容と再編過程に関する総合的研究」が始まった(~2011年度)。ここで、従来昭和戦時期までを対象としていた研究の主要対象時期が、1940年代末まで延長された。この時期設定延長は、2009年4月14日付の補助金交付申請書には、以下のような趣旨が表明されている。

 戦前最大の教育団体・組織であった教育会が、昭和の戦時期にどのように戦争に組み込まれ、どのように機能したか、そして戦中から戦後への時代の転換、戦後の立ち上げにむけて、いかなる対応が現れたか。戦前の教育団体の最終段階の実像・実態、そして戦後教育発足の過渡期における教育団体の新たな組織論の登場と現実的展開、その歴史的経緯・歴史像の詳細について学術的に本格的な照明を当てる。

ここには、戦後1940年代後半の実態を、戦前の教育会の最終段階と見なし、昭和戦時期の総力戦体制における教育会の編入過程やその役割・機能と連続的に捉える視点が見いだせる。対象時期の延長は、明治以降形成されてきた教育会の結末を認識するには戦後1940年代後半を含む必要性から行われたものであった。なお、この共同研究により、1950年代以降をも視野に入れた研究が出てきていることも、付記しておきたい。
 以上のように、梶山は、近代日本教育史とくに「教育のメディア史」へ教育会を位置づける上で「教育情報回路」概念を使用し始め、次第に多様な構成要素や機能をもつ教育会を総合的・分析的に認識するための概念として使用するようになっていると思われる。一貫しているのは、教育会の基本的性質として、教育情報を凝集・循環して時事案件の処理へ活用することに注目している点であろう。それにより、教育会の歴史的意義として、教員・教育関係者・地域住民の価値・意識・行動の方向づけ、および教育政策と教育要求との現実的具体的調整の機能を、従来以上に強調するようになっている12)。
 梶山の定義にもとづき、教育会史研究における「教育情報回路」概念の意味内容を整理すると、次のようにまとめられる。「教育情報回路」とは、教員・教育関係者・地域住民の価値・意識・行動の方向づけ、および教育政策と教育要求との現実的・具体的調整のために、複雑な組織と多様な事業によって教育情報を凝集・循環し、それを時事案件の処理へ活用していった教育会の総合的機能をいう。そのため、この「教育情報回路」概念による教育会史研究は、各都道府県市町村・植民地教育会における教育情報の凝集・循環のメカニズムの形成過程と、それぞれの時期におけるその実態、および凝集・循環した教育情報の内容とを明らかにし、それを教育会総体の機能として総合的に把握していくことが求められる。なお、そのメカニズムはメディアに擬せられるが、それは教育会雑誌などの印刷物において見られるだけではなく、諮問会議や教員養成事業などの多様な教育会事業の総体の中で捉えられるものである。

10)梶山雅史「教育会史研究へのいざない」梶山雅史編『近代日本教育会史研究』学術出版会、2007年、28頁。
11)梶山雅史「教育会史研究の進捗を願って」梶山雅史編『続・近代日本教育会史研究』学術出版会、2010年、9頁。
12)例えば、渡部宗助『府県教育会に関する歴史的研究―資料と解説』(平成2年度文部省科学研究費(一般研究C)研究成果報告書、1991年)は、教育会による教育政策・行政の補完と教育要求の反映とに言及し、その両者が「相補的」であった可能性を仮説的に述べている(4~7頁)。

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