さて、「教育情報回路」概念の検討の続きです。今回から、「教育情報回路」としての教育会の歴史を、研究会メンバーの先行研究をフルに用いて叙述してみようという部分です。出典を示す場合は以下のように表記してください。
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白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日。
または
白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日(「教育史研究と邦楽作曲の生活」http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2015年2月13~23日)。
3.「教育情報回路」概念による教育会史試論
これまでの教育情報回路研究会の研究は、各研究者の専門性・関心を優先させて行われてきた傾向は否めない。多様性に焦点をあてることは教育会史研究の基本姿勢であるため、このような研究体制・姿勢は必要である。しかし、「教育情報回路」概念による教育会史研究がその多様性を総合的に捉えることを目標とする限り、各研究成果を分裂した状態に止めていてはならない。そこで、ここでは試論的に、教育情報回路研究会および研究会メンバーの研究成果によって、教育会史の主要な流れを検討してみたい。ただ、発表者の力量と研究環境のため、今回取り上げきれなかった研究も多いが、ご容赦いただきたい。
教育会は教育情報をどのように凝集・循環してどのような時事案件の処理へ活用したのか。この問題こそ、「教育情報回路」概念による教育会史研究の核となる。なお、ここでの教育情報とは、機関誌・刊行物・演説・討議などにおいて言語表現された(文字には限定しない)教育に関する論説・思想・学説等とし、その表現主体としての個人の存在を前提とするものとする。
以上の関心から、以下、教育会史を試論的に叙述する。これにより、教育会史研究における「教育情報回路」概念の具体的意味内容について、現在の到達点を検討したい。
(1)地域における学事協議・教員講習・教育研究機能の形成と継承 (1870年代)
教育会の源流をおおまかに捉えると、次のようになる21)。すなわち、行政設置の学事会議(諮問会議)、および行政設置の教員講習会的組織、教育内容・方法等に関する教育研究会との3つとされる。第1の行政設置の学事会議は、「公議」への参加意識により教育行政官や教員を動員し、大学区・学区・県・郡・学校連合といった対象地域を異にするものがあった22)。第3の教育研究会は、有志教員が自主的に結成したものとして捉えられている。これらの源流の成立背景には、『文部省雑誌』や田中不二麿による海外情報(NEAなど)の影響が示唆されている。また、各地域における近世以来の教育不振地域の存在など、地域ごとの歴史的な課題とも深く関わっている23)。
教育会前史としての学事会議は、次のような歴史的意義を有していた24)。当時の地方吏員は、教育行政という新しい職掌について専門的知見を持ち得たわけではなかった。地方吏員たちが教育施策について自ら手探りをしつつ、関連の知見を有する者を動員して意見・智恵を出し合って協議するために、このような「協議方式」の学事会議は必要だった。学事会議における師範学校スタッフの発言に焦点を当てると、異なる師範学校出身者間で意見対立や見解の相違が現れており、教育情報の内容・相互反応のあり方に影響を与えている。学事会議はその後、事務連絡会議にすぎなくなったとする研究もある25)。しかし、近年では、学事会議研究の進展を受けて、学務課・師範学校が学事振興・拡張のための現実問題に一体的にあたる場となり、「師範学校が県教育行政のパートナーとして施策を翼賛することが当然とする意識」を定着させる機会となったと高く評価されるようになっている26)。
このような発想は、県学務課と師範学校を核とした学事協議装置として教育会を成立させる基盤となったが、そのあり方が必ずしも「官主導」であったかどうか判断することは難しい27)。教育会成立におけるリーダーシップの所在やあり方は、公設学事会議から発展的解消的に移行した場合と教育研究会的組織を母体とした場合とのように前身の違いや、その時期が明治14年の教育会統制前か後かという時期の違いなどによって、異なるのではないか。自由民権運動の中心的活動家が教育会の源流へ合流することや28)、民権運動の啓蒙的側面とその後の教育会活動とを連続的に考えると29)、単純に「官主導」と捉えてしまうことで教育会の意義を捉え損なう可能性がある。これは、この後の時期の論点として現れる、「私立」教育会の「公的」性格という論点にもかかわる問題である。
教育会前史研究は、学事協議機能の継承という観点からの研究が最も進んでいる。しかし、第2・第3の源流、すなわち教員講習・教育研究機能の継承については、事実の指摘はされてきたものの、比較的、研究は遅れていないだろうか。または、源流が3つあると考えることそのものを問い直す必要もあるかもしれない。そもそも、当時の実態として、学事協議・教員講習・教育研究の場が、明確に区別されていたといえるだろうか。とすると、源流の把握様式そのものを見直す必要があるのかもしれない。
注
21)主に、梶山雅史「教育会史研究へのいざない」(梶山編『近代日本教育会史研究』、7~33頁)と梶山雅史「教育会史研究の進捗を願って」(梶山編『続・近代日本教育会史研究』、7~25頁)を参照。
22)千葉昌弘・釜田史「東北地方における教育会の成立と展開―岩手・秋田の両県を事例として」梶山編『続・近代日本教育会史研究』、27~60頁。
23)千葉昌弘・釜田史「東北地方における教育会の成立と展開―岩手・秋田の両県を事例として」梶山編『続・近代日本教育会史研究』、27~40頁。
24)梶山雅史「教育会史研究の進捗を願って」梶山編『続・近代日本教育会史研究』、10頁。
25)田島昇「福島県教育会議の終焉―「福島県私立教育会」創立前史」梶山編『近代日本教育会史研究』、55~79頁。
26)梶山雅史「教育会史研究の進捗を願って」梶山編『続・近代日本教育会史研究』、22頁。
27)白石崇人「東京教育会の活動実態―東京府学務課・府師範学校との関係」全国地方教育史学会編『地方教育史研究』第25号、2004年、47~68頁。
28)千葉昌弘「自由民権運動の展開と教育会の源流小考」梶山編『近代日本教育会史研究』、35~53頁。
29)山本和行「一八九〇年代宮城県における国家教育社の活動―自由民権運動との連続/非連続に着目して」日本教育史研究会編『日本教育史研究』第28号、2009年、45~73頁。