教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

なぜ幼稚園は誕生したのか?(3)―啓蒙期における教育技術の追究

2015年02月07日 23時55分55秒 | 幼児教育・保育

出典を示されるときには、以下のように示してもらえると幸いです。
 ↓
 白石崇人「なぜ幼稚園は誕生したのか?」『教育史研究と邦楽作曲の生活』http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170/、2015年2月4~11日。
または
 白石崇人「なぜ幼稚園は誕生したのか?(3)」『教育史研究と邦楽作曲の生活』http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170/、2015年2月7日。


白石崇人「なぜ幼稚園は誕生したのか?―啓蒙思想の影響とフレーベルの幼稚園構想から考える―」 より

(3)教育技術の追究

 啓蒙思想の教育論は、主体的に判断・行動する理性的人間を形成して、人間の道徳化を目指した。そして、汎愛派と呼ばれる思想家集団やJ・H・ペスタロッチー(1746~1827)によって、その教育方法の追究が行われている。そこでは、理性は、すべての人が手に入れられる能力であり、すべての人が備えている感覚器官が生み出す感覚から順序を追って発達・形成されると考えられた。興味・感心は、理性のあらわれと見なされ、身体的苦痛や恐怖に代わる学習動機として重視された。感覚を正しい順序で段階的に鍛えることによって、理性はあらわれると考えられた。この「正しい順序」は、以後ずっと追究され続けることになる。
 汎愛派(汎愛主義者)とは、1774年にJ・B・バゼドウ(1724~90)がドイツ・デッサウに設立した汎愛学舎という学校に関係した教育関係者たちを指す。この学校は、人間愛(汎愛)・啓蒙思想に基づく教育をめざした。汎愛派の人々は、ルソーの『エミール』を受容・検討しながら、さらに経験的教育と教授方法の点検を行い、学校の有用性や教育・教授様式の原則を追究した。集団における学習の過程とは、自立的な自己陶冶とは、と問い続け、直観、自己活動、労働作業、遊戯などの教育的意義を見出していった。
 汎愛派は、次のような到達点に達していた。バゼドウは、理性的家庭の結合による集団保育の実現を求めた。J・H・カンペ(1746~1818)は、幼児教育における子どもの自由な自己活動を重視し、時期尚早な早期教育や宗教教育に反対して、野外での自由遊びを推奨した。J・スツーヴェ(1752~93)は、子どもの自由な自己活動によって直感的な生きた認識を得させることができると考え、野外活動における子どもの探究・発見・詮索の重要性を説いた。グーツムーツ(1759~1839)は、子どもの遊びを高く評価し、遊びによる生活の充実や、集団遊びによる社会性の発達、遊びの観察を通じた子ども理解の深まりを指摘した。
 このように18世紀後半に完成した啓蒙思想は、のちにフレーベルが追究していった技術的な教育課題にすでに取り組んでいた。ただし、啓蒙思想における教育の考え方には、大きな問題点が2つあった。第1に、理性の発達という目的設定に関する合理的議論をできず、技術的追究を自己目的化してしまったことである。その結果、人間をモノ化してしまい、自由で主体的な人間という目的と矛盾しても気付かない研究姿勢を生み出してしまった。また、技術的追究に没頭して、「外からの教育で自ら学ぶ態度を形成できるのか」という根本的な逆説的問題を問い直すことができなくなっていた。この啓蒙主義教育思想の問題は、そのまま近代教育学の根本的問題として横たわり続けていくことになる。第2に、教育対象にした「子ども」とは誰だったかという問題である。汎愛派の言う「子ども」とは、汎愛学舎に集まった裕福な市民層の子どものことであった。そして、この「子ども」たちを、有用な実業家や活動的・思索的な市民に育成することを目指していた。すべての人々が理性を発達させることを目指したにもかかわらず、富裕層以外の子どもたちは啓蒙思想家の視野に入っていなかったのである。

【参考文献】 略 ※(0)参照

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