教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

4 明治中期における歴史学の制度化と「日本」

2011年04月04日 23時55分55秒 | 日本教育学史

 想定外の問題が現れると、計画全てがぶっとび、集中力が切れ、対応した後には疲労感が残ります。ふーっ… つーか、腰が微妙に痛み始めました…(椎間板ヘルニアもち) こりゃあ大事にしないと、動けなくなるぜぇ…

 さて、先日よりの原稿公開の続きです。

引用・参考文献の表記(例):
 白石崇人「4 明治中期における歴史学の制度化と『日本』」『教育史研究と邦楽作曲の生活』http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2011.4.4(2007.1.19稿)。
または、
 白石崇人「明治中期における教育学の制度化」『教育史研究と邦楽作曲の生活』http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2011.3.30~4.8(2007.1.19稿)。


白石崇人「明治中期における教育学の制度化」(未公開稿)より

(2)明治中期における歴史学の制度化と「日本」
 明治期における歴史学の制度化は、明治22[1889]年の文科大学における国史科設置と、明治43[1910]年の東京帝国大学文科大学史学科における「国史」「東洋史」「西洋史」の3専修科設置を画期とする。歴史学への専門分化以前においては、①儒教系史家、②漢学系史家、③国学-神道系史家、④文明史・開化史系史家の4派の歴史思潮があった。この4派は、政府に置かれた修史局-修史館において、「正史」編述の方針をめぐって争った。明治22年の文科大学国史科設置は、アカデミズムにおける自国の歴史研究体制を位置づけた最初の出来事であり、漢学系史家をその教授陣に就任させ、史学会の結成を進めた。重野安繹ら漢学系史家は、日本のアカデミズムにおける近代実証主義歴史学を形成し、明治24[1891]年~25[1892]年の久米邦武事件を経て、政治から離れ[た。][彼らは]、正面から現実に向き合う姿勢を弱め、明治28[1895]年の史料編纂掛設置と[その]事業確定により、考証主義の継承と国政の推移を中心とする編年型政治史・外交史を基本的対象とする性格を明確にしていった。
 明治43年の東洋史科・西洋史科の設置は、明治初年以来の文明史・開化史系史家の思潮の発展上にある流れの確立とみることができる。文明史家たちにとって西洋史は、欧米の文明はいかに創出され、日本はそれを学んで先進国に接近することができるか、という普遍主義・進歩主義的歴史観を共有する課題意識に基づくものだった。明治22年の国史科設置によって[を受けて]、以降の史学科[と]は西洋史科のことであった。一方、明治20年代後半ごろに制度化の必要性が主張され始めた東洋史は、日清・日露戦後の[において]独立・文明化から世界の大国化へと国民的課題が変化する状況に対応する形で、中国をアジア的停滞の原因および東洋的専制主義社会として捉え[た。][東洋史は]、日本と中国を相互異質のものとして対置し、日本の欧米への接近・追走の可能性を見出そうとするものだった。明治20年代頃から、議会政治の無秩序を制御する政治の統合主体としての天皇の重要性を確定するため、わが国体が外国と異なり、歴史と神話の合体によって日本史は物語化=道徳化の必要性が主張され始めていく。また、西洋と東洋(中国)に対する他者認識・他者表象は、世紀転換期から明治末年にかけて国文学史・日本思想史学を形成し、歴史の中から「日本」を発見していった。
 明治中期における歴史学の制度化は、修史館や帝国大学におけるアカデミズム実証主義歴史学の形成として進められた。歴史学における明治中期とは、明治前期から続く、自国の独立を根拠づける歴史認識を巡る主導権争いの決着の時期であり、明治後期以降へと続く、天皇制国家の形成手段としての日本史の成立と物語化=道徳化と、西洋・東洋(主に中国)における「日本」の知的位置づけの動きが芽生えた時期であった。

 (以上、2007年1月19日稿。[ ]は2011年4月4日附記)

<参考文献>
①永原慶二『20世紀日本の歴史学』吉川弘文館、2003年。
②小路田泰直「日本史の誕生-『大日本編年史』の編纂について」西川長夫・渡辺公三編『世紀転換期の国際秩序と国民文化の形成』柏書房、1999年、127~145頁。
③桂島宣弘「一国思想史学の成立-帝国日本の形成と日本思想史の『発見』」西川・渡辺編、同上、103~126頁。

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