ふーっ…新学期が始まってようやく第1週目が終了しました。忙しすぎて、息をつく間もなく夜になってしまいます。これがこれから15週も続くのか…たまらんなぁ…
さて、原稿公開は、今回で打ち止め。今回のは、ばらばらの先行研究を整理してます。Ⅱ-3以降(教育学の組織化について)は、書きかけ、調べかけで何年も止まったままです。
あぁ…このテーマちゃんとまとめたかったなぁ…と思いますが、かなりの時間と労力とを使うので、今は無理です。
引用・参考文献の表記(例):
白石崇人「8 明治中期の帝国大学・『文検』における教育学」『教育史研究と邦楽作曲の生活』http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2011.4.8(2007.1.19稿)。
または、
白石崇人「明治中期における教育学の制度化」『教育史研究と邦楽作曲の生活』http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2011.3.30~4.8(2007.1.19稿)。
白石崇人「明治中期における教育学の制度化」(未公開稿)より
(3)帝国大学における教育学教育
大学における教育学教育は、明治20[1887]年、帝国大学文科大学において始まった。明治20年9月9日、文科大学は学科増設を行い、哲学科・和文学科・漢文学科・史学科・博言学科・英文学科・独逸文学科の7学科で構成された。教育学は、全学科第三年次において教育されることになった。明治22[1889]年6月27日、文科大学は、国史科を増設、和文学科を国文学科、漢文学科を漢学科と改称した。そして、やはり国史科・国文学科・漢学科ともに、第三年次において教育学の教育が行われることになった。明治22年12月には仏蘭西文学科を増設したが、同学科でも第三年次において教育学が教育されることになった。
帝国大学文科大学での教育学教育は、明治20年1月9日に来日した、エーミール・ハウスクネヒトによって始められた。ハウスクネヒトは、同年9月より教育学の講義を開始し、明治23[1890]年7月に離日した。また、ハウスクネヒトは、中等教員の補充を目的とし、明治22年4月8日に文科大学の付設機関として特約生教育学科を開講した。特約生教育学科での教育内容は、講義において「教育学概要」「教育学概要及実地演習」「授業法ノ某部」「近代国語授業法理論及英語授業法実地演習」、「演習会」において「教育学ノ講義及書籍又ハ特ニ授ケタル講授ニ就キ討論演説批評ヲ為シ又論文ヲ作ラシム」とし、「自修」として「ペインタル教育学史中某章釈解及批評参考書ノ指示」がなされ、実地授業も行われたという。
ハウスクネヒト離日後の明治23年9月10日以降は、野尻精一が講師嘱託として教育学教育を担当した。明治25[1892]年2月28日、教育学修業のためのドイツ留学および仏英米等の教育視察を終えた日高真実が帰国し、同年3月18日、高等師範学校教授兼文科大学教授として教育学教育を担当することになった。明治26[1893]年9月、帝国大学は講座制を採用した。その際、文科大学には、教育学講座が1講座設置された。ただ、日高は翌明治26年2月より病臥し、同年9月の講座制発足と同時に帝大教授を依願免官となった。日高は、明治27[1894]年8月20日に死去した。日高に代わり、再び野尻精一が、明治27年から29[1896]年まで講師として教育学教育を担当した。明治31[1898]年から36[1903]年までは、大瀬甚太郎が講師として教育学教育を担当した。なお、明治38[1905]年以降は林博太郎が講師として、明治41[1908]年以降は吉田熊次が助教授として教育学教育を担当した。『東京大学百年史』部局史一によると、明治41年の吉田熊次の教育学講座助教授就任と教育学研究室の成立は、東京帝国大学における「教育学の教育と研究の基盤がつくられた」事件と評価されている。
(4)「文検」における教育科
「文検」とは、「文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験」の略称である。「文検」の法制化は、明治17(1884)年8月13日の文部省達第8号「中学校師範学校教員免許規程」において行われた。教育学の試験も、修身・和文などの教科と同じように学力と授業法も試験によって検定することが示され、明治18(1885)年3月16日から4月17日まで第一回の試験が行われた。「文検」は、受験者の学力に問題があったため明治22(1889)年と23(1890)年の2年間は開かれなかったが、それ以外の時期は東京で毎年開かれた。
明治29[1896]年12月2日、文部省令第12号「尋常師範学校尋常中学校高等女学校教員免許規則」により、試験が予備試験(地方)と本試験(東京)に分けられ、尋常師範学校・尋常中学校教員の試験の程度は高等師範学校の学科程度、尋常師範学校女子部・高等女学校教員の試験の程度は女子高等師範学校の学科程度に準じられ、すべての学科で教授法が課せられることになった。教育科は、尋常師範学校・同女子部・高等女学校教員の試験に置かれた。なお、明治40(1907)年4月25日の文部省令第13号により、教育科受験者・教員免許令に対応した教員免許状・小学校本科正教員免許状の所有者以外の受験者全員に、予備試験時に「教育ノ大意」が課せられることとなった。
明治18(1884)年から昭和23(1948)年まで行われた「文検」の教育科試験は、全体的に、教育学の学問的性格・研究法や隣接諸学との関係、教育学の概念等の間にある関係、教育史上の人物や思想の意味およびその現在への影響、歴史的な事実・教育実践の知識、教育実践の中で理解し活用する形での心理学概念の知識、教授論・学校論・時事的教育問題に対する批評・論評を求め、師範学校教授要目が公布される明治43(1910)年以前には、教育史関係の出題が比較的少なく、心理学関係の出題が最も出題されていたという。明治28[1895]年の教育科合格者は、文部省に卒業生の中等教員免許において無試験検定の許認可を得た学校(認可学校)の卒業生の場合は、出願者12名に対して合格者1名(8.3%)、学力試験を受験した者の場合は、出願者出願者117名に対して合格者4名(3.4%)、合計すると出願者129名に対して合格者5名(3.9%)であった。明治30年代以降になるとこれより合格率は上昇するが、一部の時期を除いて、教育科合格率は10%代から20%代を前後する程度だった。教育科の試験が求めた教育学の内容、すなわち中等教育段階の教育学は、かなりの程度を維持していたと見ることができよう。
「文検」の実施とともに、次第に中等教員および中等教員志望者を対象にした講習会が開かれるようになった。中等教員志望者が「文検」合格を目指しているだけに、これらの講習会における教育学教育も無視はできまい。明治24[1891]年には、大日本教育会が夏期講習会を開催し、「尋常師範学校、尋常中学校、高等女学校ノ教員、及該教員志願者、其他左ノ学科研究志望者」を対象として、高等師範学校の国府寺新作と篠田利英を講師として教育学の講習を行った。大日本教育会は、以後毎年8月に夏期講習会を開き、たびたび教育学の講習を行った。明治20年代以降、大日本教育会の他にも明治義会のような団体が、中等教員の現職・志望者に対する講習会を開き、教育学の講習を行った。
最後にもう一つの教育学教育の場がある。先に少し触れた、許認可学校における教育学教育である。明治中期における許認可学校は、文部省訓令でたびたび改定されたが、おおよそ帝国大学・高等中学校(高等学校)・高等商業学校・東京工業学校・東京美術学校・高等師範学校附属師範学校(東京音楽学校)などの官立学校であった。これらの官立学校では、例えば明治29年の高等師範学校附属音楽学校では、渡辺龍聖が教授として教育学を講義していた。また、明治32[1899]年4月5日に至ると、文部省訓令25号「公立私立学校・外国大学校卒業生ノ教員免許ノ件」によって、一部の私立学校にも無試験検定の許可が下りることになった。明治32年に教育科の無試験検定の許可が下りた私立学校は、私立東京専門学校文学部と私立哲学館教育部であり、明治33[1900]年には私立慶應義塾大学部文学科にも許可が下りた。なお、一部の私立学校では、明治32年以降の無試験検定の許可が下りる前から、教育学教育が行われていた。例えば、慶應義塾文学科では、明治23年から中島泰蔵を講師に招いて教育学を講義させていた。
(以上、2007年1月19日稿。[ ]は2011年4月8日附記)
<参考文献>
①東京帝国大学編『東京帝国大学五十年史』上冊、東京帝国大学、1932年。
②榑松かほる「日高真実における教育学の形成-日本教育学説史の一端緒」『教育学研究』第48巻第2号、日本教育学会、1981年、65~175頁。
③寺昌男・竹中暉雄・榑松かほる『御雇教師ハウスクネヒトの研究』東京大学出版会、1991年。
④東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史』部局史一、東京大学、1986年。
⑤寺昌男・「文検」研究会編『「文検」の研究-文部省教員検定試験と戦前教育学』学文社、1997年。
⑥平田宗史『日本の教育学の祖・日高真實伝』溪水社、2003年。
⑦船寄俊雄・無試験検定研究会編『近代日本中等教員養成に果たした私学の役割に関する歴史的研究』学文社、2005年。
⑧『高等師範学校附属音楽学校一覧』従明治廿九年至明治三十年。