教育史研究と邦楽作曲の生活

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3 明治中期における人文・社会系諸学の制度化

2011年04月02日 23時55分55秒 | 日本教育学史

 来週やばい。第一関門。

 昨日朝歩いていたら、つくしがすげえ群れになって生えていました。
 さて、それはともかく昨月末からの続きを。

引用・参考文献の表記(例):
 白石崇人「3 明治中期における人文・社会系諸学の制度化」『教育史研究と邦楽作曲の生活』http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2011.4.2(2007.1.19稿)。
または、
 白石崇人「明治中期における教育学の制度化」『教育史研究と邦楽作曲の生活』http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2011.3.30~4.8(2007.1.19稿)。


白石崇人「明治中期における教育学の制度化」(未公開稿)より

3.人文・社会系諸学の制度化

 本節では、明治中期における人文・社会系諸学の制度化過程を考察する。ここではまず、人文・社会系諸学の制度化過程を考察する視点を設定する。諸学史の先行研究によれば、明治期における人文・社会系諸学の制度化は、明治後期以降の東京帝国大学文科大学・法科大学における制度化へと集約していく。帝大における教育学は、明治26年の講座制導入により、帝大文科大学哲学科の一分野として制度化される。したがって本節では、まず人文・社会系諸学の制度化を概観する。次に、哲学・言語学と並ぶ文科大学の学科であった、歴史学の制度化過程を明らかにする。次に、帝大哲学科の下位分野の中で、制度化の視点による研究が進んでいる、社会学の制度化過程を明らかにする。

(1)人文・社会系諸学の制度化
 人文・社会系諸学の歴史を、大学制度を中心にみると次のようになる。明治10(1877)年の東京大学発足時、人文・社会系の学部は文学部と法学部であった。発足時の文学部は「史学哲学及政治学科」と「和漢文学科」に分かれ、明治12年に「史学哲学及政治学科」は「史学政治及理財学科」となった。明治14年、文学部は「哲学科」「政治学及理財学科」「和漢文学科」の3学科となり、明治18年に「和漢文学科」は「和文学科」「漢文学科」に分かれた。明治18年12月、文学部から政治学・理財学を法学部へ移して法政学部が成立し、法政学部は「法律学科」と「政治学科」に分かれた。明治19(1886)年、帝国大学令により法科大学と文科大学に再編され、大正8(1919)年までこの2分科大学体制が続いた。帝国大学令により文科大学は、「哲学科」「和文学科」「漢文学科」「博言学科」に分かれた。文科大学は、明治20年に「史学科」「英文学科」「独逸文学科」、明治22年に「国史学科」「仏蘭西文学科」を増設し、明治37年に「哲学科」「史学科」「文学科」の3学科に整理された。法科大学は、明治41年に「経済学科」を増設するまで学科構成は変化しなかった。このように次第に増設・再編された学科、または明治26年以降は学科の下に設置された講座の下、その教員や学生・卒業生によって研究会等が組織された。
 石田雄によると、明治の社会科学の決定的な転換点は、明治20(1887)年の「国家学会」の成立による、官学アカデミズムにおけるドイツ学優位の確定だという。明治以後の社会科学の発端は、西欧列強に対する対外的独立のため、西欧の制度とくに行政組織と法制度の急速な輸入に伴って現れた。国家学会成立までは、欧米各国から帰国した者たちによって様々な団体が結社され、どこの国の理論を日本に摂取するかをめぐって対立がみられた。明治14(1881)年の政変以降、政府・官学において英・仏学が閉め出され、プロシア(孛国)学が重視されるようになった。閉め出された英・仏学は私学において活発化し、これに対抗するため、官学の中心を担うドイツ系の「国家学」を振興する国家学会が結成された。一方、しばしば私学や雑誌を舞台として、国家学会と対抗しながら個別に政治学・経済学が発展した。
 従来のドイツ国家学の摂取の傾向は、元々ドイツ国家理論中にある自由主義的要素を排除し、積極的に日本史上の神秘的・家産制的要素と接合しようとしていた。このような国家学は、忠君愛国を義務とし天皇・国家の保護を受ける臣民を創出し、明治憲法体制を形成するため必要であった。ただ、明治30年代頃になると、政府官僚中に学才に富む人材が増え、それまで条約改正や国家機構の整備などへの協力のため忙殺されていた学者たちが、教育や研究に集中できるようになった。また、ドイツの学問の紹介が、政治家としてでなく専門研究者として行われるようになり、日本とドイツの違いが明らかになり始め、日本における国家学の分化・変質が起こってくる。国家学会も次第に変質し、結成当初は有力な政治家・実業家を会員としたが、次第に帝国大学の公法・政治学の研究者だけの集団に変化していった。
 明治20年代末~30年代の時期になると、急速かつ跛行的な工業化過程において、統一的な既存の秩序から逸脱した部分として、「社会」が意識化される。支配層において「社会」は、操作可能な領域としての「政治」と区別され無秩序な領域として意識化され、次第に富国強兵・挙国一致という「国家」の論理に対して吸収・包摂されていく。社会問題に対する共通の関心を持った人々は、明治30(1897)年、自発的に「社会政策学会」を結成した。社会政策学会には、官学以外の経済学者や労働運動の指導者をも包摂し、一部の国家学会の会員も入会した。社会政策学会の成立・発展は、日本の社会科学の政治からの自立、国家学からの方法的分化を示しているという。
 社会科学の制度化過程は、学会結成が重要な指標となっている。明治中期における社会科学の制度化は、対外的独立を目的とする西欧の行政組織・法制度の輸入のための国家学の形成過程として進められ、国家学会結成によって決定的なものとなった。国家学は、元来「問題的」なものとしての「社会」が意識化されるにつれ、次第に変質・分化し始め、明治30年の社会政策学会結成につながったとされる。明治中期には、明治前期から続く西欧の制度輸入を目指す国家学の制度化の確立と、明治後期以降に続く自国の社会問題研究の制度化の芽生えがあったといえる。

※なお、「人文・社会系諸学」とは、現代日本において人文・社会科学の範疇に含められる諸学問のことである[とする]。これは、本稿が対象とする明治期において、「科学」としての人文・社会科学であるか否かを事実の選択基準とすることは、不適当以前に不可能であると判断したためである。

 (以上、2007年1月19日稿。[ ]は2011年4月2日附記)

<参考文献>
①石田雄『日本の社会科学』東京大学出版会、1984年。
②山崎博敏『人文社会科学を中心とする学問の専門分化と学会の構造と機能に関する社会学的研究』平成10~11年度科学研究助成金(基盤研究(C)(2))研究成果報告書、2000年。
③山崎博敏「学会と学界-学術研究の支援機関としての役割」『大学院の改革』講座21世紀の大学・高等教育を考える第4巻、東信堂、2004年、137~158頁。

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