東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

田布施町 光市 石城山の古道,神籠石巡りウォーキングの下見(2/3)

2019年10月27日 | 歴史探訪他ウォーキング

 石城山に到着すると、田布施町や平生町方面を見下ろしました。目をこらすと、馬島,佐合島,上関町,そしてその向こうに四国が見えました。7~9月のウォーキングは猛暑に加えて雨に泣かされて景色を楽しむことができませんでした。そのため、快晴で涼しかった今回の下見ウォーキングは快適でした。高さ300m近い高度でありながら楽々登ることができました。立ったまま景色を楽しむと、石城山で一番高い高日峯に向かいました。

  石城山に到着すると、田布施町や平生町,さらに向こうの上関町を遠望


 高日峯に向かう途中日本神社に行きました。目的はさざれ石を見るためです。このさざれ石は県外から持ち込まれてものです。いろんな石がくっついて岩になったものです。一種の堆積岩ではないかと思います。高日峯に着くと思い思いの場所に腰を下ろして昼食休憩としました。ここからは柳井方面を見下ろすことができます。これまた、柳井市を見下ろしながら、その向こうに周防大島を見ることができます。

眼下に田布施町や平生町    高日峯神社に到着  眼下に柳井市や周防大島
  

 景色を楽しみながらの楽しい昼食休憩は、あっと言う間に過ぎてしまいました。お弁当などをリュックにしまい、神籠石を見学するため出発しました。石城山の神籠石は子供の頃から何度も来ました。そして、来るたびに、何のために,誰が,なぜ,何時,どうやって作ったのか不思議に思います。田布施町の城南地区、つまり石城山の南側の麓は古墳がとても多い所です。古代には小国家があったことは間違いありません。当時の人が何人も駆り出されて作ったのではないかと想像します。

    神籠石見学に向かう       積み方がよく分かる神籠石の石垣
 

 神籠石の名前の由来は、神様の領域を守る境目の石とされてきました。おそらくこの石垣が放棄されてから数百年後、この石垣を発見した人がそう思ったにちがいありません。発掘調査の結果、今では古代朝鮮式山城説が定説になっています。万里の長城と同じ技術が使われていることが分かっています。古代朝鮮半島が百済,新羅,高句麗が相争っていた頃に作られたとされています。

  神籠石に沿って歩く    キャンプ場に出る    仁王門を通り石城神社へ
  

 特に白村江の戦いで当時の倭が破れた時、唐と新羅の連合軍が襲来することが予想されたための防護用の城だとされています。その後、唐と新羅の連合軍が襲来する危険が無くなったため、石城山の山城は築城途中で放棄されたとのことです。その証拠として沓掛石に軸穴が彫られていません。ちなみに、沓掛石は門の軸をささえる石です。軸穴がないと言うことは、門が完成していないことの証明になります。つまり、門が完成する前に築城が放棄されたことを示しています。

     登り降りした石城山古道と、訪ねた神籠石などの史跡ルート


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