東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

田布施川支流の灸川を調査ウォーキング(3/4)

2013年09月09日 | 歴史探訪他ウォーキング



 県道をどんどん柳井方面に進んでいると、運動会の練習とおぼしき放送がだんだん聞こえてきました。東田布施小学校です。小学校が見える付近で、県道に沿うように灸川堤防が迫ってきました。草が茂る堤防に上がり、正面に柳井市の大平山を見ながら八和田方面に向かって歩きました。

          灸川の堤防に登り、八和田方面に向けて歩く。向こうに大平山


 八和田に着くと、堤防近くに大きな石塔がありました。その石塔には階段が付いていました。何かお供えをするためか、火でも灯すのでしょうか。石塔からは、県道の向かい側に八幡八幡宮の石鳥居が見えました。そして、傍に灸川に架かったコンクリート製の橋がありました。
 その橋を渡って、灸川の左岸堤防沿いをどんどん下流に向かって歩きました。しばらく快適な堤防道です。右手に東田布施小学校や田布施街を見ながら、そして左手に余田西山集落を見ながら歩きました。

     八幡八幡宮を正面に、石塔          石塔近くの、灸川をまたぐ橋
 

 しかし500m位灸川を下った場所に来た時、堤防は草木で覆われていました。そして、それ以上進めませんでした。仕方なく、田んぼを東に横切って余田西山地区の集落に出ました。そして、八和田方面に引き返しました。石塔を少し過ぎた場所に、同じようなコンクリート製の橋がありました。
 その橋を渡った近くに、「流れ恵比寿」の祠がありました。田んぼの真ん中にある小さな祠です。伝説では、大昔この付近がまだ「唐戸の瀬戸」と呼ばれていた海峡だった頃、宮島から恵比寿様の木造が流れ着いたそうです。その恵比寿様を祀ったのが、この祠の始まりだそうです。昔は相撲や出店などのお祭りがあり、とても賑やかだったそうです。

    行き止まりの灸川左岸堤防             灸川傍の「流れ恵比寿」の祠
 

 「流れ恵比寿」の祠を見学後、再び灸川に戻り上流に向けて歩きました。この付近まで来ると、目の前に赤子山が見えてきます。広々とした田んぼの向こうにそびえる赤子山。天気が良いこともあり、田んぼの薄緑、赤子山の濃い緑、そして真っ青な空はコントラストが映えてとても綺麗です。堤防斜面に腰を下ろして休憩しました。

           広々とした余田の田んぼの向こうに見える赤子山、絵になる風景


 休憩後に灸川をどんどん上流に進むと、灸川は北に向きを変えます。そして川幅も狭くなりました。県道と交差する場所に、いつも行く農機具店の山口クボタ田布施が見えてきました。農機具の部品を注文するためによく行くお店です。山口クボタ田布施の向こうには、石城山や行者山が見えます。

      灸川が北に向きを変える       クボタのお店の向こうに行者山が見える
 

 山口クボタ田布施が間近に見えるようになると、東方面にJA南すおう柳井ライスセンターがよく見えるようになります。そして、その向こうに柳井の三ヶ岳琴石山が見えるようになります。ところで、余田には租税完納塔があります。近郊の農村が不作で一揆が起きていた頃、余田では一揆が起きなかったそうです。租税完納塔が立つほど、昔の余田は豊かだったのでしょう。

  JA南すおうライスセンターの向こうに、三ヶ岳(左〇)や琴石山(右〇)が見える


 灸川は、通行できない堤防沿いの道が一か所がありました。このため、だいぶ道を迂回してしまうことになりました。このため、予定になかった柳井市余田の西山地区を歩きました。しかしながら、八和田付近から灸川はずいぶんと天井川になっています。川底が周りの田んぼより1,2m高いのではないかと思われます。万が一、大雨の時に堤防が決壊すると付近は冠水するのではないでしょうか。
 不思議に思うのは、どうして灸川は柳井側ではなく平生側に流れこんでいるのでしょう。大昔、海が柳井市余田の西山近くまで来ていたことに理由があるように思います。平生側の方に流した方が、早く海に水が流れ去るからです。もし、余田に流れ込んでいたら、余田,新庄,古開作などの広大な田んぼが水害に見舞われたでしょう。人工的に平生側に流れるようにした気がしてなりません。

              ピンクの線は、今回歩いた灸川に沿うルート
 

コメント
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