東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

国木田独歩が渡った、初代八海橋又は渡し船

2013年09月14日 | 歴史探訪他ウォーキング

 先日、国木田独歩の作品「帰去来」を改めて読み直しました。田布路木から高塔※の吉見家までの道筋のことが書いてありました。その中で、八海から高塔までの道筋に興味を持ちました。いったいどの道を独歩は通ったのだろうと。なお吉見家跡は、田布施川沿い史跡巡りウォーキング8回シリーズの3回目で通りました。ウォーキングに参加された方々に説明しました。
 ※高塔の地区名は戦後、藤尾,下山,旭の一部を統合して「高塔」に

     高塔にある吉見家仮寓後跡碑     今は舗装道路になっている、かつての峠
 

 まず独歩は、高塔にある吉見家に着く直前に山深い谷を越えたと書いています。その谷はもうありません。私が子供の頃、その深く谷のようになっていた細い峠道を通って高塔と八海を往復していました。今その谷や峠は、削られてただの舗装道路になっています。ここが昔、谷があり峠があったことを知る人は少なくなりました。

               八海には古道を含めて、三つの国道188号線


 今の八海には今、古いコンクリート製橋(二代目八海橋)があります。その橋は、近年の護岸工事のさい田布施側が撤去されています。平生側は予算のつごうで撤去工事できずそのまま残されているとのことです。そして、その隣に新八海橋(三代目八海橋)があります。ところが明治・大正時代、その新八海橋から200mくらい下流にさらに古い石橋(初代八海橋)がありました。
 その石橋ができる前、江戸時代や明治時代初期にその対岸を結ぶように渡船場がありました。その渡船の仕事をしていた家の屋号は「渡屋」(わたしや)と言い、まだその家があります。その石橋の架橋年が分からないのですが、国木田独歩はその石橋を渡ったか、または渡し船を使って高塔の吉見家に向かったはずです。なお、この石橋跡については、田布施川沿い史跡ウォーキング8回シリーズの4回目で、一緒に歩いた方々に説明しました。

      石橋と渡船場の跡                三新化学側の石橋跡
 

 この石橋(初代八海橋)を調査していると、その石橋の写真が八海公会堂に展示されていることを知りました。八海公会堂に入らせていただき、その石橋の写真を撮影させていただきました。その石橋はキジヤ台風(1950)とルース台風(1951)で倒壊したそうです。その時、すでに二代目八海橋ができていたため、石橋は修復されず廃棄されたとのこと。
 この石橋は、柳井にまだ残っている旭橋にとてもよく似ています。その旭橋はこの冬に歩いて渡ることができました。しかし、今は歩行者も含めて通行禁止になっており、倒壊するのを待つだけです。この旭橋は、3本の橋脚などがとても初代八海橋に似ています。

    渡船場に架けられた初代八海橋             初代八海橋の位置
 

   初代八海橋にとても似ている柳井の旭橋、倒壊の恐れがあるため現在通行不可


 ところで、初代八海橋を調査していて面白い橋を知りました。初代八海橋と対になっている「こくぼ橋」(漢字名は不明:小窪橋?小久保橋?)がまだ残っているのです。そこで、その小窪橋を調査してみました。三新化学の平生側にその橋は残っていましたが、とても橋とは思えない姿です。何十年も誰も渡らないため、橋かどうかわからないほど雑草で覆われていました。雑草をかき分けてその橋の中央に行ってみました。生い茂った草の下を探すと、確かに橋の手すりがありました。初代八海橋とこの小窪橋は同じころ作られたのではないでしょうか。

             何十年も忘れ去られ、草に覆われた小窪橋(こくぼばし)




 その小窪橋の袂近くに、古い井戸のような石組とお地蔵様がありました。何のための石組なのか分かりません。もしかして、この付近に広がっていた塩田に関係しているのではないかと思われます。なお、この石組傍に、先端を縄でつながれた朽ちた竹竿2本が倒れていました。最近お参りか祈祷があったような形跡です。近くの玖珂島神社に関係があるのでしょうか。その石組傍のお地蔵様には文字が刻んでありました。その文字を読み取れば何か分かるかも知れません。

     八海地区にあるお地蔵様と           平生真覚寺近くの交差点
     よく似た石組傍のお地蔵様      左は竪ヶ浜、手前は八海、右は平生街
 

 なお、そのお地蔵様にとてもよく似たお地蔵様が、初代八海橋があった場所にもあります。八海地区の方々が、そのお地蔵様を大切に守っています。同じころに初代八海橋に一つ、小窪橋に一つお地蔵様が作られたのではないかとも思われます。
 ところで、独歩の「帰去来」に田布路木峠から高塔山が見えたと記述されています。そこで、実際に田布路峠に行ってみました。しかし、家が建ち並んで見えませんでした。少し平生側に行くと、ようやく見えました。

                      田布路木付近から見た高塔山


 8月18日に、八海地区の初代八海橋袂にあるそのお地蔵様を祀る催しがありました。参加された方に聞くと、天保8年(1837年)にお地蔵様が置かれたと、代々言い伝えられているとのことです。天保8年に石橋が作られたとは思えないので、船による渡しがあった頃に作られたようにも思われますが不明です。
 なお、お地蔵様を祀っていた女性の住職様は、千坊山光福寺の住職様でした。1週間ほど前に千坊山光福寺の88番個所を回り住職様とお話しをしたばかりです。再会してその住職様も私を見てびっくり、握手を求められました。私も、八海で再会することになるとは驚きました。

  お地蔵様を祀っている千坊山光福寺のご住職様、それを見守る八海地区の方々


 国木田独歩が歩いた平生から高塔の吉見家までの道のりは、平生真覚寺すぐ近くの交差点から南西に歩き、小窪橋を渡り、初代八海橋を渡り、峠を越えて高塔に入ったと思われます。ただし、初代八海橋の建築年代が不明のため、橋を歩いて渡ったのか、渡船場の船で渡ったのかは分かりません。もう少し調べる必要があります。

         三つの八海橋の位置関係と小窪橋 ※旧旧八海橋は初代八海橋のこと
               赤線は実際に歩いて調査したルート



 八海橋の変遷については、平生町の発展と関わりがあります。江戸時代初期は今の平生町は海でした。江戸時代に干拓・開作が進んで、今の平生町の基礎となりました。
 下図で、茶色の線は江戸時代後期から大正時代頃までの幹線(当時は国道と言わなかったかも)でした。そのルートは、天池を大内川沿いの道を野島まで行き、そこから平生街の中心を通り、真覚寺近くのT字路を分かれて、こくぼ橋を通り、田布施川に到達します。田布施川は渡し船を使うか初代八海橋を通って麻郷に行きました。その頃は、徒歩か大八車程度でしたので細い道でした。この細い道を、馬車やバスが通っていたそうです。私が幼児の頃、平生街を馬車が通っていたことを覚えています。
 その後、昭和20~30年代に下図の橙色のバイパスができました。今の平生クリニックや平生郵便局前の道です。私が幼児の頃、このルートを舗装工事していました。この頃、角浜付近は塩田が広がっていました。
 そして近年、下図の黄色のルートになりました。このルート付近は私が幼児の頃、広々とした田んぼが広がっていました。この広い田んぼの間を、当時の平生保育園からとぼとぼ歩いて帰ったものでした。
 これら幹線道路(国道)の変遷に伴って、八海橋の位置も変わったようです。なお、人島橋(1812年架橋の木製橋)が架かった後に、初代八海橋(石橋)が架橋されたと思われます。このため、江戸時代後期は人島橋を渡って平生に行くことができました。なお、平生町のバスルートが複雑なのは、この国道の変遷が関係していると思われます。
 田布施も道が大きく変わりました。田布施の変遷も合わせて調べると、面白いと思われます。

              八海~宇佐木間の幹線道路(国道)の変遷

コメント (2)
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