goo blog サービス終了のお知らせ 

チャリンコ漫遊

ゆ~っくり、の~びり、新しい景色と新しい世界を求めて…リンリン・尺八・田舎暮らし… 

テカボ湖・ミルフォサウンド(NZ) 2005

2007年12月18日 | 外旅の思い出
きれいな国のきれいな湖、、テカポ湖の思い出します


走っても走っても牧草地帯です。
浜名湖程の大きさのテカポ湖のあるテカポ村は300人程の小さい村ですが湖の周辺は別荘地であったり観光客が多く賑わっているとのお話でした。

私達はサザンアルプスのマウントクック(3754m)への途中で昼食と散策でした。
『善き羊飼いの教会』等の見学でしたが、とにかく奇麗な景色、奇麗な湖でした。








ミルフォードサウンドの遊覧船


ホテルの有るクイーンズタウンからミルフォードサウンド迄300Kmとか…
往復600Kmを一日のバス旅です、日本では考えられませんね、一般道ですからね。
まぁ~高速並みの速さでしたが信号なし、渋滞なしですから…

バスの中で聞いたニュージーランドの交通事情
★橋は一車線の交互通行で信号無し
★観光バスは踏切一旦停止するが他の車はしない
★車内は飲食禁止で無灯火
★殆どの道路は一車線対向道路


南緯45度線を行ったり戻ったりしてミルフォードサウンドヘ

10mで1m下がる急勾配のホーマートンネルを抜けると景色が一変、急な岩盤あらわな山々でトンネル工事は大変な難工事であったと云うのはうなずけます。



フィヨルドランドについて
200万年程前の氷河期にはフィヨルドランド一帯に積もった雪が氷になり又解けるの繰り返しの度に土を削り取って又凍る、次第に氷河は深く大きく地形を変えて行く。
そうして出来たこのミルフォードサウンド


ミルフォードサウンドクルーズは2時間程の遊覧です

日本人用の昼食(幕の内弁当)を食べながら……
コーヒー紅茶は自由に飲み放題、しながら………
左右の断崖絶壁、流れ落ちる滝を見ながら………











西安・中国(1996)

2007年12月18日 | 外旅の思い出
★兵馬俑は始皇帝陵の1.5キロ東にある。
秦の始皇帝の力を感じずにはおれない、凄い。
2000年もの間地中に埋もれていたものが、
目の当たりにして身震いがした。
西安の中心部は城壁に囲まれて解放路、
蓬湖路、等碁盤の目のように道路が走っている。
西安の街ではお決まりのコースなのだろう
レストランシアターなる唐楽宮での夕食。
★陜西省博物館(碑林)では漢、随、唐、宋代に至る
歴代の名筆を刻んだ1905基の石碑が林立している。
お気に入りの拓本二点額と軸を買う。
三蔵法師がインド各地を16年間廻り645年帰国、
持ち帰った経典657部を彼自身が翻訳し
その作業の為に建てた寺慈恩寺つまり
★大雁塔の最上階まで上ったが残念ながら
西安の街は霧で見渡せずだった。
★華清池は周代からの温泉地で楊貴妃が使った風呂あと
蒋介石が捕らえられた捕蒋亭などがあり見学。
楊貴妃(唐代の玄宗皇帝の息子の嫁で唐の没落中
玄宗の指示で美女楊貴妃は自害する)
上海への飛行機が霧の為飛べず空港で2時間待ち。
その間迷惑をかけてと飲み物や弁当が出る、
搭乗すれば機内食、
上海に着けば予定に入っているとレストランへ、
もったいないが殆ど手つかず(一番のご馳走)
だった事等も今となれば旅の思い出の一つ。

ガンジス河(インド)

2007年12月18日 | 外旅の思い出
   ガンガーの日の出


早朝のベナレスの町、バスを降りて河に向って歩いている時のガイドさんは今日の日の出は無理残念と云われ諦めておりましたが舟に乗りしばらくしますとこの通りすばらしい日の出を迎える事ができました、感動でした。



ヒマラヤの山間部ガンゴトリー氷河が源でヒンドゥスターン平原からベンガル湾まで流れる2500Kmの河

神話によれば
バギーラタと云う王様が先祖の犯した罪を浄める為神々に悲願し苦行を重ねた結果罪を洗い浄める力を持ったガンガー女神が天界から地上に流れ下ったのだとされる。
以来ガンガーはあらゆる人々の罪を浄め、よりよい再生を叶えてくれる聖なる河として崇拝するようになった。
ヒンドゥー教徒はこの河で沐浴する時には母なるガンガーに身をゆだねる安堵感に浸り又死んだ時には母に抱かれてヒマラヤに帰って行く事を願ってガンガー女神に篤い信仰を捧げると云う


ガンジス河 2(インド)

2007年12月18日 | 外旅の思い出
ガンガーの沐浴風景


ガンジス河の西岸には60ものガートがあるそうです
ガートとは岸辺から階段になって河水に没している堤の事
巡礼者にとっての聖地になっているのは
ワルナーサンガム、パンチガンガー、マルカニカー、ダシュワメード、アッスイー、の5ヶ所
ガイドさんの説明によりますと日の出の太陽に手を合わせて水に浸かり祈る行為を7回繰り返す事が沐浴と云いそれ以外は単なる水遊びだとの事でした

ガートでは火葬中の煙がたっています。写真は禁止です。
周囲には沢山の薪が積まれておりましたし石段には次の順番を待つ色布に包まれた死人が横たわっておりました、女の人らしい。女性は色のついた布で男は白布で包むと決まっているようです。
火葬場は50番のマニカルニカーガートと22番のハリシュチャンドラガートの2ヶ所です。
赤児なんかは焼かずに川の真ん中あたりに重しを付けて沈めると云うことでした、水深20~30mもあるらしいです。
インドの平均寿命は65才とか死が近づいたら身辺整理をしてここでその時を待つと云う、しかしこれを出来るのもお金のある人だと云う。
この辺は少し調べてみたいなと思います

インド寝台列車の旅

2007年12月17日 | 外旅の思い出
インド国の長距離夜行列車、30分遅れの発車


関西~関東や九州への寝台特急が消えると云う
『銀河』『あかつき』親しまれた愛称が消える。
時が、時代が過ぎる移り変わる…、

インド列車旅を思い出す
ベナレスへの移動に寝台列車に乗った
定刻より30分遅れ、ホームで待つが通過列車も無し、
移動売店で箱の絵を見て買物、めちゃ安、砂糖菓子みたい。
沢山の乗客はみなおとなしく待っている。説明も案内もアナウスされないまま…
やっとの列車に乗り込む。

左側は窓に直角に2段向い合わせに4人ベッド
通路挟んで窓に平行に2段ベッド2人

ホットし荷物の整理をし、疲れた体をベッドに横たえる。
列車の振動が背中に伝わり気持ちがいい

トイレはタンク無しの垂れ流し、線路が見える、昔の日本の列車と同じだと思い出す。
風が吹き上げる感じをして変な感じを体験
停車中は当然使用禁止だ

インドの列車は深夜なのに汽笛鳴らしっ放しだ
線路沿線の家は寝れなく大変だろうと心配したものだが…

ある大きな駅に停車。ホームには大木が何本かあり、出入り自由のよう、
暗い照明、ホームのその木の下は裸で敷物も敷かずの沢山の人が寝ている
何か異様な感じをもつ、

この列車は2時間遅れとか??
朝5時停車駅で真っ赤な太陽の日の出、思わず手をおわす、
旅が無事でありますように……素晴らしい朝日だ。

途中停車駅で脚腰伸ばしにホームに降りる。
少しの時間とは云え売店見たり、いろんな人達の様子を見たのは得した感じ、

列車は町を過ぎ村を走り抜ける、相変わらず汽笛は鳴り続け、朝の景色を呆然とみていると
三三五五壷を持ってあぜ道にしゃがみ込む姿、何だと思います、、トイレらしいです。
紙は使わず壷の水で対応とか。しかし皆んなが毎日でしょう。後処理は??
公園等の始末してない犬の糞でも難儀なのにどう対応しているのかな~~

やがて終着駅、結果的には13時間程の乗車時間、昼前ベナレス駅に降りる。
ホームでは大変なハエの数の歓迎と大変な臭いにそして慣れた筈のインドの景色?なのに理解出来ない景色が目に飛び込んで来る。
これがインド、インドなんだと自分に言い聞かす

イスタンブール(トルコ)1999

2007年12月17日 | 外旅の思い出
関空~トルコは13時間、
東西文明の十字路と云われるイスタンブール。
1453年トルコ軍は東ローマ帝国を陥落させ
首都コンスタンティノーブルをイスタンブール
と名ずけたらしい。
17世紀オスマントルコが築いた★ブルーモスク
神の知恵の意味する★アヤソフィアモスクは
元はキリスト教会をモザイクやフレスコ画を
漆喰で塗り固めて偶像崇拝を禁じたイスラム
教徒が使う。
6世紀ユスティニアヌス帝時代に築かれた
★地下宮殿。オスマン帝国の力を象徴する
豪華絢爛な装飾調度品、43のホールと285の
部屋、そのインテリアには14tの黄金と40tの
銀が使われていると云う★ドルマバフチェ宮殿。
世界中から贈られた財宝、明治天皇からの
プレゼントもあった★トプカブ宮殿。
5000店が入っていると云われる★グランドバザール、
では同じ様な通りばかりで迷子になってしまった。
それにボスボラス海峡のクルージングや
軍楽隊メフテルの見学。
自由時間に町へ出る、道を渡るのが大変。
それとトルコの車は洗車しないのかドロドロのまま。
言葉は出来ないがスーパーへ買物に入ったのだが
お金の勘定が大変、レジでの支払いが209万リラ
円に換算するには0を3ヶ取って0.4を掛ける
(1999年)面白い体験をして迷いに迷って
ホテルにたどり着いた楽しかった思い出。








ソロ・プランパナン遺跡・(インドネシア)

2007年12月17日 | 外旅の思い出
プランパナン遺跡



関空から5時間、インドネシア首都ジャカルタのスカルノ・ハッタ国際空港着。
東京と大阪の便に限って機内で入国審査が受けられると
云うのは時間の有効利用からも有難い。
ジャカルタからジョグジャカルタ迄は
1時間のフライトである。
ヒンズー遺跡のプランパナン。
シバ神をまつるひンズー教僧の村プランパナンで
修復は50年程かかるとか。
それにしても凄い遺跡である。
ソロと云えば‘ブンガワンソロ’の歌を思い出す、
はっきりと歌詞は知らないがメロディーは覚えている、
調べてみた
ブンガワンソロ涯しなく 清き夢のせ流れゆく
父母も若き日頃 共に聞きし愛の調べ 星は移りゆき
世の人変われど愛はとこしえに ただ一筋
ブンガワンソロ涯しなく 清く夢のせ流れゆく


訳詞 緒園涼子
作曲 グサン・マルトハルト

日本の歌と思っていたがインドネシアの民謡とか
そのソロ川に行く、大河のイメージがあったから
落胆。ソロの町では王様が経営するホテルに宿泊
ガムランでのお出迎えを受ける。
制服は男女とも王室風
ラジャブスタカ博物館やマクネガラン王宮
そして果物市場を見学、種類も豊富
マンゴ、ランブータン、サラー、マンゴスティン、
モンキーバナナ等しかし市場歩きは
面白かったしソロの昼食が美味しかった


ローテンブルグ(ドイツ)1989

2007年12月17日 | 外旅の思い出
思い出の町ローテンブルクへのバスの車窓、
山は無い見渡すかぎり畑がつづく、縦横にハイウェイ、
何所迄も続くアウトバーンを走っていると
やっぱり広い国だな~アと感じる。
そんな景色に突如として飛び込んで来た町
それがローテンブルク。
日本のように徐々に集落に入って行くのではない。
ここローテンブルクは城壁に囲まれた中世の町、
石畳とレンガの独特の町である。
マルクト広場に面した市議会員宴会堂は‘仕掛け時計’で有名だ。
観光案内によると30年戦争と云う宗教戦争で
1631年プロテスタント側にあったローテンブルクは
ティリー将軍率いるカトリック側スウェーデン軍に占領され
焼き払われる運命にあった町を救う為将軍の申し出を
請けて立ち4リッターのワインを一気に飲み干した
ヌッシュ市長の模様を仕掛け時計にして
毎日11時12時13時14時15時に見られる、
と云う事で14時の時報を待った。感激だ。
辺りにはクリスマス関係の装飾品の店が沢山あり
年中やっているそうな。
言葉は出来ないが町のパン屋さんに入り食べたのだが
何ともそれはそれは美味しくて、
味が変わるのを承知で土産に買って帰ったが、
数日後になり食したがその時の味は無かったものの、
それでも日本にはない美味しいパンで、
今ももう一度あの店に行きたいと思っている。
そうそうそれと普通の町のレストランでの食事の時に出た
飲み物で、水もジュースもビールも皆同じ値段で頼んだ
グラスワインの白が何とも美味しくて、
忘れられないもう一つの味の思い出。

サンフランシスコ(アメリカ)

2007年12月16日 | 外旅の思い出
       ゴールデン・ゲートブリッジは全長2.780m、高さ66m、支柱間の長さ1.280m


東にシスコ湾、西に太平洋、北は金門海峡と三方を海に囲まれた半島の先にある島へゴールデンゲートブリッジを渡りました。

何度か外旅をしていますが、『アメリカへ来た』と思いましたね。
坂あり山あり、ロスアンゼルス等とは又違いますものね。

空港に着いて先ず思った事は…(涙)(笑)
男性トイレの便器の高さ、、空港特に高かったのでしょうか?

だってやっとこさクリアーですから……
時々つま先立ち、、当然不安定、、

当方165cm、少々短足タイプ、、
子供のオシッコの様子を自分に当てはめて(涙)

みなさん経験ございません???




歩いて彼方此方寄りながら成田不動尊境内に着きました。
何故だか分かりません、成田不動境内から西方の大阪方面を眺めながら足の休憩タイムとしていました時、ツインピークスからサンフランシスコの町を眺めた時のある事を思い出しました。

眺めた景色が似てるようにも思えませんが……




チェンマイ(タイランド)の想い出

2007年12月15日 | 外旅の思い出
            チェンマイ国際空港



チェンマイ・プラザホテル918号室がチェンマイ観光の拠点でした。


チェンマイ
1296年 ライナータイ国建設
1556年 ビルマ軍の浸入で滅亡


タイランドで一番落着ける、馴染める町と思いました。
全てを知らず云うのはなんですが綺麗で温かさの伝わってくる町の思い出があります。
アユタヤ、スコータイ、ピサヌローク、等々に比べて……


カントークディナーショウで少し飲み過ぎの感ありでしたが、その後のナイトバザールでの行動が酒の勢いが作ってしまいました。

いいんですがハイ、、、

ま~~楽しかったでした、、、


夕べのアルコールが未だお残り状態なのに、翌日はケシや大麻栽培の北部山岳民族村を見学したのです。

が此処への交通便が小型トラックの改造バスの上に凄いグネグネ悪路道。
しっかりバーに掴まりますもお尻痛、その上、夕べの残り物あり。クタクタだった思い出。


でもチェンマイのドイステーブ寺院は凄い立派な寺でした


アレキサンドリア・カイロ(エジプト)1999

2007年12月13日 | 外旅の思い出
  ピラミッドを背にサハラ砂漠をラクダ漫歩中の思い出です



世界各地で地震等の自然災害が起きています、車が流され高速道路が倒れ、大きなビルや家屋の倒壊等考えられない破壊力、ふと思い出した事、それはあのピラミッド。
150m以上の高さで200m余りの長さのピラミッド、300万個の石を使っていると云うピラミッドです。

機械も車も無い時に、どこから?どうして?運び、どうして?積み上げて造りあげたのか?。
いろいろと‘だろう説’はありますが確固たるものは無くいまだに謎です。

しかし紀元前の時代から今尚、堂々とした雄姿、建造物にもいろいろ………






自爆テロの有ったハン・ハリーリ市場での思い出です


大変活気のある市場で余程しっかりせねば騙されるように思います。
自由行動の時間に私たちもウロウロと市場へ、、

一軒のお店に陳列して有った20$程のネフェルティティの置物を手にして見ていただけなのに強引で離して呉れません。
意思表示をはっきりせねば駄目で日本語でも良いから要る要らない、それでは無いこちら、注文しても手にする迄目を離してはダメ、途中ですり変わる可能性あり、で大変です。

向こうの人は声が大きく喧嘩しているようです、が負けたらあきまへんで大阪弁で頑張りました。
通じたのか拗れかかった売買も成立しましたが(汗汗)でした。
最後は握手して『さようなら』と云って貰って別れましたが恐さ半分でのショッピングでした。

後でガイドさんも云ってましたがやっぱりいろいろトラブルあるみたいで、気をつけたいそんな思い出です。

この市場で自爆テロがあり18人の死傷者が出ました。なんでも外国観光客を狙ったと犯行とか……

97年にはルクソールでは60人程が射殺された大きな惨事がありました。



その後、観光国エジプトは大打撃を受けて我々の訪れた時も未だアレキサンドリアに限っては観光バスでの移動時は朝から晩迄白バイの先導で後ろは銃を構えた警官の乗ったジープが護ってくれました。

国賓並みの扱いで我々の行く先の信号は次々と手動で青に変えられた凄い観光を体験致しました。


最初で最後でしょう、凄い警護のアレキサンドリアの旅の思い出です


国として観光客を最優先に考えている現れで肌で感じたものです。

本当に国まるごと世界遺産のエジプトは全世界、人類が護らねばなりませんね。
紀元前のエジプト文明は現代に於いて解明出来ない不思議ばかりだと云われています。
中国も凄いですがエジプトはその上のように私は思いましたが……




ナイル川の遊覧船上でベリーダンスを頑張りました
酒酔いの勢いもあったのでしょうが見よう見まねで踊り拍手を頂いた思い出です

北極圏のイエリーバーレ(スウェーデン)

2007年12月11日 | 外旅の思い出
              イエリーバーレ鉄道駅舎



ホテルからイエリーバーレの駅迄110SEK、日本円で2000円程の距離でした。

タクシーを降りても西も東も分かりません。
雪道を適当に町歩きです。駅迄の帰る道だけは忘れないようにせねばなりません。

知らない町で言葉も分からないのは毎度の事不安ですが反面、面白さもあります。

何時も言葉も分からない、知らない町歩きはスーパーからと決めてます。

ショッピングに会話がいらないし町の雰囲気をつかみ易いし本当に面白いですからね。

レジでも日本の場合は空き籠へ移していきますね。こちらは面白いですよ、レジを通したあとの商品は広い台の上へ、、左右に動く棒によって振り分けられ次のお客さんとの間に時差を作り袋に入れるのが容易なように考えられているのがとっても面白い風景でした。


主にウインドショッピングになるのですが珍しい商品や興味のあるお店を廻っても会話は出来ません、残念ですが…
しかしお互いの表情だけでお互い笑いあえるのは楽しいですね。

雪道に慣れていないもので町歩きも大変で変な所に力がはいってしまいます。

帰りはタクシーしか利用できないという事で沢山の買物をしてしまいましたが、
それにしても物価が高いですね~北欧は。


イエリーバーレ教会でたまたま葬式の出棺に出くわしました。

式の参列者が霊柩車を見送り、近親者であろう自動車が続いて行きました。

後の人たちは前の会館のような家に入っていきました。
故人を偲ぶ会が始まるのでありましょうが簡単で質素な感じでしたが葬式はこれで良いと思いました。

日本の冠婚葬祭は少し派手過ぎのように思います



ユッカスヤルビの氷ホテル(スウェーデン)2004

2007年12月10日 | 外旅の思い出
スウェーデンのユッカスヤルビにある全てが氷で出来ているホテルです


その地は何とも遠い所でした。
大阪から成田へ、~ デンマークのコペンハーゲンへ、~ スウェーデンのストックホルムへ、そこから国内線に乗り換えて北極圏のキルナ空港迄、なんと26時間の空旅でした。

世界中でここだけにしか無いアイスホテルと云うことで見学に行きました。

このホテルのあるユッカスヤルビはキルナ空港から東へ17Kmの所にありました、サーメ文化の地です。

サーメ村を流れるトルネ川から切り出した氷で作られるこのアイスホテルはベットもバーのカウンターもグラスも全てが氷氷氷なのです。

感動したのは氷のホテル内にある氷の教会の氷のシャンデリアです、芸術そのものです。

沢山ある部屋の造りがそれぞれ違い個性豊かです。

宿泊は予約で満杯の人気らしいですよ。

氷のベッドの上に毛皮を敷いてあり許しを得て横になってみました。
変な感じでしたが以外と普通?でした。

氷のホテル内の氷バーでは何か映画の撮影が行われておりました。


この日の昼食はジャムをつけて食べるトナカイ料理でした。もちろん初食です。
何か分からない味ですが思った程クセは無かったですね。

それにしても北欧は物価が高い、小ビールで720円です。
スウェーデンはアルコール分4.5度以上は専売店でしか買えません、3.5度のライトビールはスーパーでも売っているらしいのですが、このビールはその範囲のはずなのに、たか~いです~。

でもさすが北欧、暖房は凄い、外はマイナスの世界なのに(ちなみに今日はー15度らしい)レストランの中は春のようでした。


食後に少し自由時間がありましたので、1608年建築で木造のサーメ教会を見学に行きました。

ところが道が大変でした。ツルツル道です。
20分程慎重に歩いて行きました。

周囲はホント絵のような茶色の壁に白で縁取りした北欧独特の家が点在していました、雪の中の茶色ですから一層映えて見えます。きれいな景色でした。

博物館等もありサーメ文化のさわりだけでも触れる事が出来たようにおもいます。

それにしてもこんなにツルツルの道をバンバン走るバスや車は不思議です、タイヤが違うのでしょうか…、何が??





クライストチャーチ(NZ)2005

2007年12月07日 | 外旅の思い出
街の中心、大聖堂



大橋巨泉さんが今クライストチャーチに滞在中と新聞で読み、なつかしく思い出す。
人口36万人のきれいな街、巨泉さんの店〈OKギフトショップ〉もある。
エイボン川が流れ、甲子園球場の50倍と云うハグレ公園がある。
自然ばかりで‘公園不要’なんて勝手に思ったものだ。
住宅地の家は北向きが多い、南半球では日本と反対で南向きは寒い。




ニュージーランドは所得税が33%法人税53%消費税は12%とか

ホテルチェックイン後言葉も出来ないのに街歩き、
大聖堂の内部見学や調べておいた〈シティーワイナリー〉へ
話題のブルーチーズやワインを買いにゆく、
沢山の試飲試食で結局沢山買ってしまう、
最後の晩のホテルに届けて貰うことにする。
オーナーは日本での商社マンに見切りを付けここで商売をしていると
云っておられた、住みやすいとも。
夕食にラム料理店を紹介して貰い、忙しいのにその店迄
車で送って貰い尚店に入って注文する所迄世話になる。
本当にありがたかった。
言葉の通じるのは有難いしやっぱり日本人同士と云う事でかナ
知らない国での親切は嬉しい。
帰りは酔ってる事もあり、気も大きくなり知ってるふりして
ツレアイと二人ウインドショッピングをしながら
そして迷いながらホテルに帰る。
こんな旅行者が狙われやすく、一番危ないのだろう。
クライストチャーチは大聖堂と云う大きな目印があるので
そこまで帰れば方角もホテルへの道も分かろうと云うもの、
しかし相当遠回りをしていたようヘヘヘ、でもいい
楽しい忘れられないクライストチャーチ夜の想い出


テオティワカン遺跡(メキシコ)1997

2007年12月07日 | 外旅の思い出
      テオティワカン遺跡

太陽のピラミッド、月のピラミッド、ジャガーの神殿、死者の道、等

テオティワカンは古代中部アメリカ最大の都市で、紀元前二世紀~六世紀頃まで栄えた云われます。


メキシコへの旅の飛行機はJAL.日本航空です。絶対的信用度高い優秀会社です。だったと思います。今、外国の航空会社の資金援助を受ける会社になるとは当時の勢いからは想像もつきません。残念ですね、寂しいですね。

関空出発便は、ロンドン~香港~関空~ロサンゼルス、行きでしたが関空到着が40分遅れました。一旦入国してロス市内観光でしたが二度目で新鮮さはなかったのですがサンタモニカ海岸は良い思い出になりました。

ロスからメキシカーナ機でメキシコシティーへ4時間ほどのフライトでしたが到着時間が遅い上に入国手続きで手間取り深夜になってしまいました。
メキシコが厳しいのか時期がそうさせたのか入国時に荷物検査を受けたのは当時としては初めての体験でした。


さてテオティワカン遺跡ですが、メキシコシティーの北東50Kmに位置しています。

スケールの大きさは驚きです、高い水準の文化です。

太陽のピラミッドの頂上に登りましたところ、現地の一つのグループが両手を太陽に向かってかざして回りながらお祈りをして踊りだしました。
言葉も何も分かりませんが私たち旅行者もグループに合わせて一緒に踊りました。何か満たされた気持ちになったのは不思議な体験でした。



アステカ文明
アステカ族の人々にとって、神々を祭ることの行事は何事にも換えられない事だった。
そしてそれらの行事の祭りには彼等の守護神であるウィツィロボチトリに人間の心臓を捧げることが慣わしとなっていた。
儀式の日、祭りが最高頂に達する頃この日のために選ばれた名誉ある者が神官にかしずかれてピラミッドの上へと向かっていく、そこには太陽の光にまぶしく光る黒曜石の鋭いナイフを手にした神官が待っている。

彼の背に垂れた長い髪は過去何年にもわたって何十人、何百人と云う犠牲者の鮮血を浴び続け見るもグロテスクに固まっている。

選ばれた名誉ある民はピラミッド頂上の神殿の前に置かれた『生け贄の石』に仰向けに寝かされ4人の神官に手足を押さえられ、そして彼の胸からは太陽と同じ赤い輝きを持つ心臓が取り出される。
未だヒクヒクと動いている心臓はいち早く神殿内の神の偶像に捧げられその血は偶像の顔面に塗り付けられる。
一方なきがらは地上めがけて放り投げられる。
石段に血しぶきを散らして転がり落ちた死体は神官の手によって生皮がはぎとられる。
それを被った神官は人々の踊りの輪に加わり,
こうして祭りはクライマックスに達し人々は陶酔状態になって踊り狂う。
遺体はその間に切断され頭はは過去の犠牲者たちの頭蓋骨と共にツオンパントリと云われる晒し棒に並べられ、内臓は支配者の慰みの為の動物園の猛獣の餌となる。
そして犠牲者の太股の部分の肉がボソレの中身となって貴族の口に運ばれたと云う。

★ボソレ………とうもろこしの実をはじかせ、それを鶏肉や豚肉と長時間煮込む


            (ガイドブックの記事より)