この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

キング・コング。

2005-12-16 22:25:00 | 新作映画
『キング・コング』、Tジョイ久留米にて鑑賞。

異形のものの惜しみない愛。

『キング・コング』は究極の愛の映画だと思います。
毎度毎度映画のレビューをするたびに偉そうに定義して申し訳ないですが、『愛』とは何だと思いますか?
もちろんどう定義しようが人それぞれ自由ですが、自分は『愛』とは「自らの命よりもある存在を大切に思うこと」だと思います。
命が一つしかない以上、愛も本来唯一無二だと思うのですが(思いたいのですが)、今の世の中、あまりに愛が軽すぎやしませんか?
といったオヤジ臭い説教めいた戯言はさておき、では、愛していることはどうやったら証明出来るのでしょうか?
言葉で?いやいや、言葉はこの場合無力です。例え百万遍「愛している」と囁いたとしても愛していることの証明にはなりません。
そう、『愛』は自らの行動で示す他ないのです。
さて、この映画の主人公であるコングは巨大な類人猿に過ぎないので当然のことながら愛しきアンに自らの気持ちを伝えるすべを持ちえません。
また異形のものである彼の前には、あえて彼と称しますが、多くの障害が立ち塞がっています。
というか、その愛が何らかの形で成就するという可能性はゼロです。我々観客はこの映画がリメイクであるため、その多くが結末を知っています。そういった意味でも可能性はゼロですが、そういうことでなくて、コング自身もそのことを(本能的に)知っていたのだと思います。でなければクライマックスで逃げ場のないエンパイヤ・ステートビルに登るはずもないですから。(単に知能が低かったからあそこに逃げたのだという解釈はしたくありません。)
気持ちを伝えるすべを持たず、多くの障害が立ち塞がり、さらに成就する可能性さえない。そのようなシチュエーションで誰がその愛を全うすることが出来るでというのでしょう?その愛に殉ずることがことが出来るのでしょう?
切ない、ですよね。
愛は純度を増せば増すほど、心は強く揺さぶられます。
ラストシーン、アンへの愛を貫き、そしてアンがそれに応えてくれたことに満足げな表情を浮かべながら、コングはその命を終えます。
どんな純愛映画さえ敵わぬほど切ないシーンだと思います。

さて、『キング・コング』は究極の愛の映画だと書きましたが、監督であるピーター・ジャクソンの、『キング・コング』への並々ならぬ思い入れも忘れてはいけません。
ピーター・ジャクソンといえば、何といっても『ロード・オブ・ザ・リング』三部作で知られていますが、そもそも企画自体は『キング・コング』の方が先ですし、『ロード・オブ・ザ・リング』を映画化したこと自体ですら『キング・コング』の前準備だったといっても過言ではありません。
アンへの愛を貫いてコングの命が燃え尽きたように、ライフワークといえる『キング・コング』映画化という偉業を成し遂げ、ピーター・ジャクソンの映画作家としての生命が燃え尽きていなければよいのだが、と一ファンとして心配せずにはいられません。
それほど映画『キング・コング』は素晴らしい出来だったと思います。
コメント (13)
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