ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文藝散歩 西郷信綱著 「古事記の世界」 (岩波新書1967年9月)

2017年09月05日 | 書評
律令制度に組み込まれる前のぎりぎり遺された、神々の声が響き合う倭の神話の世界 第5回

2) イザナキ・イザナミ 黄泉の国

イザナキ・イザナミ二神は、四国、本州の国々を次々と生んだ。これを大八島国という。さらに吉備の児島、小豆島、そして海の神、山の神、風の神など合わせて35柱の神を生んだ。イザナミは最後に産んだ火の神カグツチによって焼かれて死んだ。イザナキは亡くなった妻に会いたくて黄泉の国に行った。死者の世界は範疇表に見る様に、穢れた世界である。腐敗した妻の死体を見たイザナギは恐れおののいて逃げだしたが、見られて恥をかかされたイザナミは怒って黄泉醜女にイザナキを追わした。「見るな禁止」を犯したイザナキほうほうの態で黄泉比良坂を「千引の石」で塞いで逃げるという逃亡譚である。その逃亡譚が実に面白く笑えるのである。「見るな禁止」譚は他に、山幸彦の妻豊玉姫のお産の場面がある。海族神の妻の正体が鰐であることを覗き見された豊玉姫は海に逃げ去る話である。「見るな禁止」を破って責任をとらずに逃げるのが日本人の原罪であると、古事記を精神病理学から読んだ、北山修・橋本雅之著「日本人の原罪」(講談社現代新書 2009)という本がある。死者は殯(あらき、かりもがり)の一定期間(49日)は魂は体と共にあるとされる。つまり死者の通過儀礼としての「あらき」を描いた場面である。その間に、生き残った者の間に身分上の再編成が行われ、相続問題が取り決められる時間が必要である。古代朝廷ではこの期間に王位継承に絡んだ反乱が引き起こされた。殯(あらき)の期間とともに生物的死と社会的死が終了するのである。それが死者への恐怖と重なるからである。死体安置所であるアラキに固有の腐臭がある。霊的ではなく肉体的悪臭である。火葬の普及とともに死者の世界が理念化され、アラキの制も廃止された。人は死者の恐れから解放されたが死の恐怖が目覚める。仏教が普及するまでは死後の世界はこの世との連続性がみられる。黄泉の坂をふさいだ石のことを古事記では「道反大神」、「塞ぎ座す黄泉戸大神」と呼び、書紀では戸の塞の大神」と呼ぶ。この塞を民間の「さえの神」(道祖神)信仰につながる。村の境で悪霊の侵入を防ぐ石神である。地蔵信仰もその仏教的変容である。書紀の一書にはイザナミを厄病神として遇されていることを示している。鎮花祭は季節の花で疫病退散を願う祭りである。死者は恐怖の対象であるとともにケガレの源であった。神道はケガレを忌む宗教といって過言ではない。「いなしこめしこめき穢き国」とは黄泉の国を指す。イザナキが禊ミソギをしたのは筑紫の日向である。この地は詮索してもしかたがない。暗い黄泉に対する日の照らす東の海という概念に過ぎないからである。イザナキが禊をして天照大神、月読命、建スサノオ命の三神が生まれた。

(つづく)