ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 矢部宏冶著 「日本はなぜ、基地と原発を止められないのか」 (集英社インターナショナル 2014年10月)

2017年07月09日 | 書評
憲法9条に外国軍基地撤去を謳うことから戦後を再スタートしよう 第6回

3) 安保村の謎1ー敗戦そして日本国憲法 (その1)

本論に入る前に、2つの権力側の常套手段猿ある種の統治テクニック(民衆をごまかすレトリック 「朝三暮四」)について紹介する。ひとつは沖縄国際大学内米軍ヘリコプター墜落事故ごの日米合同委員会の対応策です。事故から8か月後に設けられたガイドラインでは、事故現場の周囲に内側の規制ラインを米軍が、外側の規制ラインを日本警察が管理するというものです。つまり二つの規制閾を設けて日米で分担して管理する印象を受けますが、実態は米軍の周りに日本の警察が配備されて米軍の活動を擁護するだけのことです。現状は何も変わりはないのにこれで解決したと思わせるテクニックです。いかにも官僚の姑息な手法です。二つ目のテクニックは密約文書を巡る言い逃れです。2009年に成立した民主党内閣は1960年に「核密約」が存在したかどうかを調査しました。外務省が委嘱した有識者委員会は、2010年3月「厳密な意味での密約はなかった」と発表しました。アメリカ側は公文書公開で密約がったことを認めているのに、委員会の座長であった北岡伸一東大教授は密約には狭義と広義の密約という奇妙な論理を言い出します。広義の密約は厳密な密約ではないという、苦し紛れの言い訳です。最初から調査等する気はなかったようです。そして佐藤栄作氏自宅金庫から密約文書が見つかるという落ちがありました。東大の権威というのは、昔徳川家康に悪智恵を授づけた天海和尚のようなものです。権力者には便利な代物ですが、世間ではその智恵たるや笑い種に過ぎません。結論ありきの屁理屈です。戦後日本国憲法は誰が作ったかという教育は、以前は日本人が作ったとされていましたが、いまはGHQが作ったという教育がなされています。「作った」と「書いた」という言葉に意味は違いますが、憲法についてこれほど真逆の議論は終わらせる必要があります。大仏さんは誰が作ったか、「聖武天皇が作った、いや仏師が作った」という笑い話です。憲法草案を書いたのはGHQですが、それをそのまま憲法にした(選択した)責任者は日本政府です、これが正解です。2012年4月当時野党だった自民党が気楽に書いた憲法草案があります。国連の人権委員会を始め、世界の有識者が腰を抜かすほど驚いたと言われます。「これは何世紀前の憲法かね」 近代憲法は国民が主権者であり、人権を侵されないように「立憲主義」をとることを全く理解していないようでした。近代文明のレベルから見ると、明治欽定憲法を擬した自民党憲法草案は3歳児にも劣る内容でした。第2章 福島の謎ー原発村で示したように、「原子力ムラ」と「安保ムラ」の構造は類似しています。「原子力ムラ」の構造は福島原発事故以来かなり明らかになったように原発推進派の利益共同体です。「安保ムラ」とは日米安保体制推進派の利益共同体です。日米安保中心の国作りつまり徹底した対米従属路線をとったのは昭和天皇とその側近グループです。終戦直後日本の支配層(トップサイド)が自己保身を第1として、自らアメリカに提案したのです。軍部が暴走したとどう弁解しても、1941年12月の「開戦の詔書」を書いた昭和天皇の責任は免れるものではなかった。マッカーサーの副官であったボナー・フェラーズは昭和天皇の責任を調査して「日本本土への無血進攻を可能ならしめるため、我々は天皇の協力を要求した。そうした以上天皇を戦犯として裁判にかけると日本の統治機構は崩壊し、反乱が起きるかもしれない」と言っています。ここで日米間でバーター取引が成立した。天皇の退位という選択肢も取らなかった。「天皇を平和の象徴として利用しよう」とする米軍の占領計画が1942年6月に立案されている。アメリカ政府は天皇の傀儡政権を介する間接統治を選んだ。戦後の重要な文書はすべて米国の提案になるもので、最初は英語のテキストが存在した。1945年8月21日マニラに居たマッカーサーの下に3つの書類が届けられた。当たり前だがすべて英語で書かれていた。
①降伏文書(9月2日ミズーリ号での降伏文書)、
②一般命令第1号(日本の海軍、陸軍にたいする武装解除指示書)、
③天皇の布告文(降伏を命じる天皇の文書、私は朕と書き替えてある) 
米軍は終戦のシナリオを実に具体的に微に入り細に入り検討している。皇居が爆撃されなかったのは、天皇への配慮であった。東久邇宮内閣の下で本土内300万人の武装解除がスムーズに進みました。天皇を利用した日本支配のシナリオは米軍のもくろみ通りでした。1945年9月27日第1回マッカーサー・昭和天皇の会見が行われました。通訳を勤めた奥村外務省参事官の正式な記録が2002年に公開されました。ここで昭和天皇は「この戦争については、自分としては極力これを避けたい考えでありましたが、戦争となると結果を見ましたことは、私の最も遺憾とするところであります」といった。マッカーサーの政治顧問だったジョージ・アチソンが国務省に宛てた極秘電報に内容は、外務省の公式記録よりは真実に近かったのではないかと著者は思っている。「マッカーサー元帥がアチソンに語ったところによれば、天皇は自分はアメリカ政府が日本の対米宣戦布告を受け取る前に真珠湾を攻撃するつもりはなかったのだが、東条が自分を欺いたのである。自分は責任を回避するために言うのではない。自分は日本の指導者であり、したがって日本国民の行動には責任があると語った。」 1945年9月25日天皇はニューヨーク・タイムズとの記者会見において、今後はイギリス式の立憲君主制でやってゆく、真珠湾攻撃は東条首相が独断でやったことで自分は相談を受けていない、将来二度と戦争をすることがないような平和国家を目指すという内容の発言をした。

(つづく)