ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 吉田洋一著 「零の発見」-数学の生い立ちー(岩波新書)

2015年12月26日 | 書評
アラビア数字は位取り計算を容易にし、連続の概念は微積分を用意した 第3回

1) 零の発見ーアラビア数字の由来(その2)

インド記数法がヨーロッパにおいて一般に普及し始めたのはルネッサンスのころであるという。その前に11世紀末から13世紀にかけて十字軍の遠征が契機となって(十字軍の意図は政治的軍事的に失敗したが)、イスラムの学問や文化の輸入、ギリシャ文化の逆輸入が盛んとなったことがあげられる。そしてヴェニス、ジェノアなどのイタリアの商業都市がルネッサンス運動の中心となった。ピサのフィボナチ(漸化式というフィボナチの数列で有名)は1202年「ソロバンの書(計算の書)」を表し、インド計数法や商業計算をイタリアに紹介した。13世紀も末になってようやくインド式計数法が普及したようであった。グーテンベルグの印刷術の発明した15世紀には出版物文化が盛んになり、インド式記数法もこれに乗って普及していった。印刷文化はまた紙の発明がなくてはならない。エジプトのパピルス、ヨーロッパの獣皮紙は高価で、中国後漢時代にできた楮・綿からなる製紙術は唐時代にトキスタンからアラビアに伝わり、イスラムからヨーロッパにもたらされた。11世紀にはスペインのトレド、バレンシアに製紙工場が設けられた。その後イタリアで製紙業ができ、だいぶ遅れてドイツでは14世紀、イギリスでは15世紀の末に製紙業ができ、紙の普及に連動してイタリアからソロバンが消え筆算に替わったのが15世紀のことである。イギリスからソロバンが消えたのは17世紀である。l位取り記数法は16世紀末にいたって、少数記法が発明されて完成した。歴史的には大きさの比である分数はエジプトやギリシャの時代から知られていたが、少数は比較的最近の発明である。ところが現在では数の延長としての整数を埋める数の小数が普遍的で、分数はむしろ変な割り算の表記法とみなされている。分数を少数に直すとほとんどが割り切れない数で、割り切れる数はまれである(1/4=0.25)。いわゆる有限小数は分数を略記したものである。ところが分母整数の数より小さい整数が余りとして残ると何回も繰り返すと必ず循環する。その典型が1/3=0.333・・・あるいは5/7=0.714285714285714285・・・などを循環無限小数と呼ぶ。これを整数と併せて有理数と分類する。従って有理数とは循環無限小数で表される数、無理数とは循環しない無限小数で表される数である。有理数と無理数を合わせて実数という。例えば円周率πは3.141592853589・・・・・は無限小数で現在コンピューターで数時間の計算で10万桁まで知られている。πは無理数の仲間であるが実は「超越数」(n次代数方程式の根にならない数のこと、根は「代数的数」という)と言われる。三角関数、対数、ネイピア数もそうである。なおπの求め方や超越数については、ペートル・ベックマン著「πの歴史」(ちくま学芸文庫)に詳しい。無限小数0.99999・・・・は9/10 (1+1/10+1/100+1/1000・・・・)であるから9/10を係数a、公比を1/10とする無限等比級数の和である。その和の公式Σ=a/(1-r)=9/10/9/10=1である。近似的に0.9999999・・・・=1ということは何を意味するのだろうか。公比のn乗はnが無限大になるときゼロに近づくということすなわち収束することが条件である。和を持たない無限級数もある。分数に対する少数の便宜性とは大小関係が直ちにわかることである。5/7と28/39 は意見してどちらが大であるかはわからない。少数に直してはじめてわかる。以上のことは近代解析学の基礎であり、微分積分学の入り口になる。

(つづく)

読書ノート 吉田洋一著 「零の発見」-数学の生い立ちー(岩波新書)

2015年12月25日 | 書評
アラビア数字は位取り計算を容易にし、連続の概念は微積分を用意した 第2回

1) 零の発見ーアラビア数字の由来 (その1)

まず実用的で経済活動になくてはならない計算(計数)という人間の行為はどうして行っていたのだろうか。19世紀始めのナポレオンのロシア遠征で持ち帰ったソロバンは今日の小学校の1年生の教室に必ず存在する計数器(算盤の基)に似ていたという。日本では、読み書きそろばんは江戸時代の寺小屋で庶民のリテラシーとして教えられていた。西ヨーロッパでは300年前にソロバンは各国の独特の進歩をもって広く普及していたという。ところが西ヨーロッパではソロバンが筆算にとって代られた。この筆算に用いられる記数法は、その数字はアラビア数字と呼ばれた。アラビア数字の起源は遠くインドにあり、アラビア人の手によってヨーロッパにもたらされた。7世紀ごろ救世主モハメッドがアラビアに生まれ、東はインドから西は北アフリカを経てスペイン半島に至るまで広大なサラセン帝国を打ち建てた。帝国は後に東西のカリフ国に分裂し、東の首都はバクダッド、西の首都はゴルドバは当時の文化の二大中心であった。ギリシャの文化はアラビア語に翻訳され(ユークリッドの原論の一部も翻訳された)、インドの学問もアラビア(イスラム圏)に流れ込んで、そこで熟成されアラビアの数学は代数学と三角法に秀でていたという。9世紀のカリフの王は千夜一夜物語で有名なハルン・アルラシッドでヨーロッパのフランク王国(後に神聖ローマ帝国となる)王シャルルマニュと交通があった。当時のヨーロッパは中世の暗黒時代で学芸はわずか僧院に受け継がれていただけで、当時の世界の文化の中心はバクダッドにあった。アラビア語に翻訳されたユークリッド「原論」が中世ヨーロッパに逆輸入された。773年インドの天文学者が天文表をもってバクダッドを訪れ、その時にインドの記数法がアラビアに伝授されたのではないかと思われる。このインドの記数法がアラビア数字にとって代り、広く広まることになった。確かに現代のアラビア数字よりも10世頃のインド神聖数字の方が現在の数字(算用数字)により近い。ゼロは点ではなく○となっている。10は位が上がって1と0の組み合わせである。我々の記数法は「位取り」による記数法である。1から9までの数字のほかに0を加えた10個の数字をもってすれば、どれほど大きな自然数(整数)も書き表すことができる。空位(何もないけど位が上がった印にゼロを加える)を表す記号なしには位取りはできない。0こそ実はインド記数法の核心であり、大げさに言えば人類文化の偉大な一歩であったということができる。古代ギリシャ、ローマ、中世フランク王国などユーロッパ諸国ではついに位取り記数法は発明されなかった。ギリシャではアルファベット記数法が行われ、これでは代数学はできなかった。エジプト数字やローマ数字はゼロはないが5進法的な位取りが行われたが、複雑な記録文字であってこれで計算はできなかった。6世紀ごろに生まれたインド式記数法がなければ今日の計算法に基づく数論はできなかったし、インド記数法こそ世界で初めての計算文字であり、また優れた記録文字でもあった。インド式記数法は最も10進法に忠実であった。現在日本で我々が教わっている命数法は10進法であるが、一,十、百、千、万までは一ケタ上がるごとに数名が変わるが、それ以上は繰り返し次は億となる。ところがインド名数法は一桁上がるごとに忠実に名前が変わるのである。日本では中国から伝わった「珠算ソロバン」(現在は4珠型)が意外と便利で、手先の器用さで現在もなお珠算を習う人は多い。卓上計算機と並んで四則演算の速さ正確さを競う。頭の中や指先に算盤を想像する(外国人は苦手であると聞く)暗算も重要な機能である。高速度電子計算機の計算方式は掛け算は足し算で、割り算は引き算でやっている。九九の表はない。また計算機はフィリップ・フロップの素子を使うので(0,1)の2進法である。10進法で数字を入れても計算機の中では2進法に翻訳する。

(つづく)

読書ノート 吉田洋一著 「零の発見」-数学の生い立ちー(岩波新書)

2015年12月24日 | 書評
アラビア数字は位取り計算を容易にし、連続の概念は微積分を用意した 第1回



「図書」(岩波書店)という小冊子を購読している。1年間の購読料が1000円という送料にもならぬ値段で名だたる方々の小エッセイ集を毎月送ってくれる。むろん1/3は岩波書店の新刊案内ではあるが、肩の凝らないエッセイが楽しめるのである。今月号(2014,9)は「岩波新書 温故知新創刊3000点突破記念」ということで、7冊の古典的岩波新書を含むエッセイ集であった。自然科学関係では、森田真生「通俗的読物の矜持」 吉田洋一『零の発見ー数学の生い立ち」と、永田紅「コアセルベートの記憶」 オパーリン『生命の起源と生化学』の2冊が紹介されている。いずれも自然科学を学ぶ理系の学生時代にとって、余りに懐かしい書籍である。私は吉田洋一『零の発見ー数学の生い立ち」は確か高校生時代に読んだ記憶がある。森田真生氏は2014年で御年29歳という若者である。そして東大文学部、工学部システム創生工学科、理学部数学科を学生として渡り歩いた変わり者である。よほど社会で働くことが怖いのだろうか。そういう詮索は別にして、森田真生氏は、計算という実用数学における位取りと零の重要性と、直線を切るという数の連続性(実数)は数学史上の最大発見だということを指摘したうえで、著者吉田洋一(1898-1989年)がはしがきの冒頭に述べた言葉「この小冊子は数学を材料として通俗的読み物である」を指して、著者の謙虚さを褒めると同時に本書が実は「画期的」な書物であるという。ゼロという今ではあまりにあたりまえの事柄が実は全世界に恩恵を与えた画期的な発見であることを強調している。そして吉田洋一氏は本文で「自ら画期的と誇称した事業が真の意味で画期的であったためしはない」と俗にいう「画期的」を戒めているのである。数学は言うまでもなく定義と論理を積み重ねて理解されるものであり、物理や化学・生物などの他の科学の経験主義とは一線を画する。だから頭の痛くなるような数式がなければ、1歩も前には進めない。その数式を一切用いないで数学的概念を教えるということは矛盾かもしれない。だから本書は「通読的読み物」だと自嘲気味に謙遜していわれる。はたしてそれが成功しているかどうかは、1939年初刷以来75年間に107刷を数え愛読されてきたという事実から、画期的な成功を収めたといっていいのではないか。吉田洋一氏のプロフィールを簡単に示しておこう。1898年東京に生まれ、1923年東京帝国大学理学部数学科卒業。第一高等学校教授、東京帝国大学助教授、フランス留学を経て1930年北海道帝国大学教授。1949年から1964年まで立教大学教授。のち名誉教授。1965年から1969年まで埼玉大学教授を務めた。数学および数学教育に多大な足跡を残した人物として知られる。随筆家、俳人としても著名であった。吉田は哲学研究の吉田夏彦の父、数学者の赤摂也の義父にあたる。主な著書に『零の発見』(岩波新書)は、吉田の名を有名にした本で、代表的な数学の読み物として現在でも多くの人に支持され読まれている。戦前に書かれた『函数論』(岩波全書)も長く読まれた本である。『微分積分学序説』(培風館)、『微分積分学』(培風館)は理工系大学の微分積分学の決定版と言われた。本書「零の発見」は2つの内容からなり、180頁ほどの本で、前篇が本書の題名となった「零の発見」-アラビア数字の由来、後篇が「直線を切る」-連続の問題からなり、両者ともに「数論」という数学分野である。なお数学の基礎をおさらいしたい人には、吉田武著「オイラーの贈り物」(東海大学出版会 2010年1月)をお勧めしたい。この本は通俗的読み物ではなく、演習中心の数学初歩事典みたいな本である。

(つづく)

読書ノート 太田昌克著 「日米<核>同盟」-原爆、核の傘、フクシマ (岩波新書)

2015年12月23日 | 書評
米国の核の傘の抑止力に依存する日本の安全保障と原子力核燃料サイクル神話に固執する政策を問う 第11回 最終回

6) もう一つの神話ー核燃料サイクルの軛(その2)

本章では姑息なプルトニウム消費策である「プルサーマル事業」よりは、外国に委託して行ってきたプルトニウム化学抽出と濃縮事業を国内で行う六ヵ所村再処理工場を取り上げる。「夢の原子炉」といわれ、プルトニウムを拡大再生産できる高速増殖炉に実用化は依然として霧の中にある。欧米諸国は技術面、経済性の理由から高速増殖炉サイクル構想から相次いで撤退した。ドイツは1991年に、米国は1994年に、英国は1994年に研究炉の運転を終了し計画を断念した。フランスも1997年に実証炉を閉鎖している。ロシアだけは高速増殖炉を1980年代から運転している。欧米では経済的に見合わず、資源的にメリットも少ない(ウランの埋蔵量が多いので)ため、プルサーマル方式を放棄し、使用済核燃料を再処理せずに直接処分へ移行する国が続出した。日本の高速増殖炉実証試験は原燃のもんじゅで行われたが、冷媒ナトリウム漏れ事故でとん挫し、再開後もまた失敗して3.11事故を受けて停止したままである。プルサーマル事業もデーター改竄事件でとん挫し、4か所の炉で動いてきたが3.11原発事故で停止したままとなっている。軽水炉サイクルに欠かせない再処理工場の建設費用は鰻登りに膨らみ、1979年に6900億円、それが1989年に7600億円、1996年の1兆8800億円に、1999年には2兆円を超え、2004年には当初見積もりの3倍を超える2兆2000億円となった。建設費以上に問題なのは、運転・保守・点検費用に加え再処理工場の閉鎖・廃止費用と手間である。電気事業連合会は総額19兆円のコスト試算を出した。工場解体費用だけで1兆6000億円である。最初は低く見積もって事業を開始し、あとは金食い虫のように増額をしなければ今までの投資が無駄になると脅かして計画の3倍以上の金を要求する官僚の手口から見ると、再処理事業は総額で50兆円を超えるのではないかと思われる。それが純粋に民間事業であるならば経済原則から投資に耐えられず自然淘汰されるべきことも、国策となると猪突猛進・初志貫徹の軍隊精神で国が財政破綻で滅ぶまで無責任に遂行する。国を滅ぼすのは昔軍隊、今官僚である。技術的なトラブルから六ヵ所村再処理工場は1985年以来20回も完成が延期され、3.11原発事故を受けて耐震追加工事など行いさらに費用が膨らむことは避けられない。「やめられない止まらない―国の事情」と官僚は自虐の歌を詠んでいる。日本の産官学の「鉄の原子力トライアングル」が猛烈に推進してきたか宇燃料サイクル事業は見直されることはなかったのだろうか。実は通産官僚の電力自由化論争と絡んで一部に撤退論がひそかに議論されたことがある。それは2002年前後のことである。東電の南社長に経産省より「六ヶ所と大間原発(プルサーマル)を止めたいと東電が言え」と打診めいた話があった。事業中止を自ら切り出さず、民に責任を押し付けようとする官のやり方をいちばん卑怯だと南社長が語った。これには当時の経産省事務次官村田成二の意向が働いていたようだ。村田氏は1990年代始め、資源エネルギー庁計画課長だったころ、六ヵ所(再処理工場)を止めようと動いたことがある。電力会社は再処理事業は国に押し付けられたという受け取り方をしているので、国が止めるといえば止めますという態度である。官は無謬性神話の中にあるから自分らの先輩が始めた事業を自分の時代に間違っていましたからやめますとは言えない。官僚村では先輩の顔に泥を塗ることになり自分の将来も危うくなるからである。厳しい情勢の変化に直面することを恐れ、そこから逃避を図ろうとする虚構性と、税金と国債を無尽蔵に使える浮世離れした世界、原子力ムラの病理が核燃料サイクルを巡る議論に現れている。

〈完)

読書ノート 太田昌克著 「日米<核>同盟」-原爆、核の傘、フクシマ (岩波新書)

2015年12月22日 | 書評
米国の核の傘の抑止力に依存する日本の安全保障と原子力核燃料サイクル神話に固執する政策を問う 第10回

6) もう一つの神話ー核燃料サイクルの軛 (その1)

通常の核燃料ウラン235に回収したプルトニウムを混合した「MOX燃料」を使用するという、「プルサーマル事業」については福島第1原発3号機で使用された。このプルサーマル事業に反対した佐藤栄佐久元福島県知事を汚職事件をでっち上げ国策捜査を行って辞任させ、次の佐藤雄平知事の下で導入を図った。この国家権力の謀略に対して戦った佐藤栄佐久氏が著した本 佐藤栄佐久著 「福島原発の真実」(平凡社新書 2011年)には、プルサーマル事業の顛末が描かれている。『福島県は第1次エネルギー転換政策である「石炭から石油へ」により、常磐炭鉱の閉鎖に伴う県内産業振興策として原子力発電の誘致にかかり、1967年に着工し福島第1原発1号機は71年に運転を開始した。時の知事は佐藤善一郎知事で、福島県出身者であった木川田隆東電副社長と組んで誘致活動を推進した。次の木村守江辻の時代に操業が始まった。佐藤栄佐久氏が知事となった1988年には福島第1,第2原発発電所の10基はすべて稼働中であった。1971年より運転が開始され1987まで、福島第1原発よ福島第2原発において合計10機の原子炉が運転されたのである。1-2年に1基操業開始という猛烈な進行ぶりで立地市町村は潤い、浜通りは「原発銀座」と囃されたのである。佐藤栄佐久氏が知事に就任した1988年9月には、常磐炭鉱跡地に産業廃棄物の不法投棄という事件がおき、原発振興を陽とすれば陰の産業構造が存在していることが分かった。地元にとって原発は経済問題なのであるが、自治体は原発政策には関与できない構造がひかれていた。福島第2原発3号炉において、1988年の暮から1989年1月6日まで3回の警報がなり、3回目にしてようやく原子炉を手動で停止した。この事故の報告は福島第2原発から東京の東電本社へ、そこから通産省に、更に資源エネルギー庁に伝えられ、最後に地元の福島県に連絡があった。事故の内容は冷却水循環ポンプの部品が脱落し座金やボルトが原子炉に流入したというものである。問題は県には原発を止めたり、立ち入り検査をしたり、勧告をするような監督権限はないのだ。池亀東電原子力本部長は「座金が発見できなくても運転は再開する」と記者会見した。経済的損失を避けることが第1で、安全は2の次以降らしい。この事故を踏まえて、佐藤栄佐久知事は専門家を集め県の原子力担当部署を強化する決意を固めたという。2006年「ダム汚職事件」が知事追い落としの国策捜査(仕組まれた冤罪事件)であったという。その遠因が知事時代の佐藤氏のプルサーマル原発反対にあったそうである。知事の弟を取り調べた東京地検特捜部の森本検事は「知事は日本にとってよろしくない。いずれ抹殺する」と言い放ったそうである。ダム汚職事件は言いがかりにすぎず、真の目的は福島県から佐藤知事を追い落とすことにあったようだ。ではなぜ佐藤知事は嫌われたを、その遠因となった福島第1原発プルサーマル導入のいきさつを暴いたのが本書である。日本の原発行政の本質と腐敗構造が示されている。なお2006年「ダム汚職事件」の政治的側面は、佐藤栄佐久著 「知事抹殺」 (平凡社 2008年)に描かれている。あわせて御覧ください。それが証拠に佐藤栄佐久知事が辞任して2006年11月の知事選で当選した民主党推薦の佐藤雄平氏(福島県には佐藤の姓が多いので注意)は2010年8月プルサーマル受け入れを決定した。MOX燃料が福島第一原発に運び込まれて10年以上経過し、やっと福島県が受け入れを決定した直後、青森県六ヵ所再処理工場はトラブル続きで9月2日に18回目の操業延期を繰り返した。そして翌年2011年3月11日福島第1原発がメルトダウンを起こし、福島第1原発第3号炉のプルサーマルは4ヶ月の営業運転で廃炉の運命となった(プルサーマルの営業運転は玄海、伊方、高浜の3箇所のみ)。』

(つづく)