ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 高木貞治著  「近世数学史談」 岩波文庫

2016年07月31日 | 書評
ガウス

18世紀末ー19世紀初めの近世数学興隆記 ガウス、コーシー、アーベル、ヤーコビらの軌跡 第4回

1) 近世数学の誕生 ガウス (その1)

1796年3月19歳のガウスが、正17角形のの作図法を思いついた事件(ガウス日記第1項)から本書は書き起されます。ユークリッド原論第Ⅳ巻には円と三角形や多角形をを外接。内接させる作図法が述べられています。円に内接する正三角形、正5角形の作図法がていりとして示され、そしてさらに辺を二等分してゆき、正三角形(辺角=120 °)から、6,12,24,48…角形、正5角形(辺角=72°)から、10,20,40 …角形が作図できます。作図と線分の比例関係という解析により線分の作図ができます。後世に正15角形(辺角=24°)が追加されました。これ以外の正多角形や奇数の素数からなる正多角形の作図は特に難しく、2000年以上誰も手を付けずに不可能と言われてきましたが、ガウスはできるものもあると示したのです。この一般かの理論は円周等分論、すなわち方程式x^n-1=0の、n=17の場合平方根によって解き得ることに基づきます。辺角φとすると、360=17φである。三角法の定理を繁用して、ガウスは3つの2次方程式を書いて正17角形の作図は可能であると断じたのだ。これは幾何の問題ではなく代数方程式の問題であった。伝説によると、正17角形の作図法の発見で、ガウスは数学の道に入ったとされる。微積分法の発見をもって近代数学の起点とする見解に異論のある人はいないだろう。アルキメデスからニュートンの間の空白は実に長かったが、ニュートン、ライプニッツらの18世紀の数学者の先行期間の後をついでベルヌーイ兄弟、オイラー、ラグランジェ、ラプラースなどの後継者の活躍があった。微積分法の拡充が一段落すると数学の行き詰まりの時期があった。これ打破したのが、18世紀末から19世紀初めに再び急速な数学の進展があった。この不連続点から「近世数学の時代」と呼ぶ。ニュートンを近代数学の開基というなら、ガウスは近世数学の第一人者というべきである。ガウスは19世紀前半を通じて時代を超越した一世の秦斗であった。カール・フリードリッヒ・ガウス(1777-1855年)はドイツのブラウンシュワィヒに生まれ、1798年ゲッチンゲン大学卒業、1799年代数方程式の根の証明で学位を取得、1807年-1855年までゲッチンゲン大学教授兼天文台長を務めた。1799年から1807年静かに研究にふける時間を得て、この時期に数学上の偉大な業績が集中するか、開始された。18007年以降の大学教授兼天文台長時代は貧しく多忙であったという。1807年以後ガウスは応用数学に忙殺された。1812年超幾何級数論は、応用論からしても摂動論の展開が解決された。1814年ガウス積分の近似計算法も摂動論に寄与した。1818年摂動論には算術幾何平均論の端緒となった。1821年最小二乗法、1827年ガウスの曲面論は測量の必要から出たものであるが、三角形の内角の和が2πになるかどうという平行線の公理を確認したのである。1839年のポテンシャル論はで磁気学研究の賜物である(ガウスの名は磁束密度の単位となった) ガウスはその数学思想の豊富さに比べて発表することが少なかった。小rは慎重主義、厳格主義(完全主義)からくるのであるが、今の研究成果のプライオリティ、業績発表至上主義からすると理解できないようである。何十年か後に誰かが定理を発見したと発表すると、それは何年も前に自分が発見していると言い出すガウスには、数学会の人々は閉口したらしい。1797年ガウスが20歳の時発表した「整数論」D・Aは驚愕の完成度を持つ作品であるが、教授の職に就いてからは時間に切り刻まれ、執筆に十分な時間だ採れなかったというのも一因かもしれないが、意満つるまでは発表しない主義で、新に革新的な内容(例えばガウスの反ユークリッド幾何学)は発表すると喧々諤々の世間の叫喚を呼ぶことを恐れたきらいがある。最小二乗法のプライオリティ(先発権)を巡るガウスとルジャンドルの悶着、1827年ヤコービが発見した楕円関数論の定理をガウスは1808年に発見していたこと、1826年アーベルがレムニスケート関数の幾何学的等分法を発見したこと、ヤコービの楕円関数論の発見などが、すべてガウスの文書に先行権があるというスキャンダルである。いまなら雑誌に発表された論文がすべてであり、個人が所有し世間で見ることはできない文書とか私信とかは証拠にはならない。とにかく昔はのんびりしていたと言わざるを得ない。

(つづく)