ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 高木貞治著  「近世数学史談」 岩波文庫

2016年07月28日 | 書評
18世紀末ー19世紀初めの近世数学興隆記 ガウス、コーシー、アーベル、ヤーコビらの軌跡 第1回

序(その1)

高木貞治氏は「数学史は各人各様で面白い史論でなければならない」という。私は先日、高木氏の本書よりも、もう少し長いレンジと広い数学分野に関する数学史を著した高瀬成仁著 「人物で語る数学入門」(岩波新書 2015年5月)を読んだ。高瀬成仁氏は数学者高木貞治について、高瀬正仁著 「高木貞治 近代日本数学の父」(岩波新書 2012年)を著している。だから高木貞治氏の紹介は省略する。その本の中で高瀬氏は高木氏の最大の業績である「類体論」を次のように述べている。『ヒルベルトは1893年「数論報告」を行い、ガウス、クンマー、ディリクレ、クロネッカー、デデキントと続くドイツの数論の歴史を総括し、困難な壁にぶち当たっている代数的整数論の展開に「類体論」のアイデアを提出した。1998年ヒルベルトは2つの論文、「相対二次数体の理論」、「相対アーベル数体の理論」を書いた。「類体」という言葉はヒルベルトの創出ではなく、ウエーバーが楕円関数の虚数乗法により供給される特別なアーベル数体を「類体」と読んだのが始まりである。ヒルベルトは楕円関数の虚数乗法の理論と類体論を基礎にすると、「クロネッカーの青春の夢」の証明が出来るかもしれないと考えた。 アーベルの定理とは5次以上の高次代数方程式の一般的解法は不可能であるというものであるが、あらゆる次数について代数的解法を可能とする特別の方程式がある。この種の方程式解法は、その根の間にあるある種の関係に基づいているというアーベルの方程式論の根幹が、ガウスの円周等分方程式(オイラーの周期関数、複素三角関数、巡回的関係)からきているのである。クロネッカーは係数が整数であるならアーベル方程式は円周等分方程式であると看破していた。ここにアーベル方程式とは、一般的記述法で表す代数方程式のことではなく、このような関係を持つ方程式の類の総称に過ぎないことに注意のこと。1901年高木は「複素有理数域におけるアーベル数体について」という論文を書きヒルベルトに見せた。「ガウス数体上の相対アーベル数体はレムニスケート関数(楕円関数の一例)の周期等分値により生成される」というクロネッカーが1853年に提出した定理に高木貞治は証明を与えることができた。そして1901年9月高木貞治は帰朝し、26歳で東京帝大の数学科第3講座代数学の助教授に就任した。1904年(明治37年)より日露戦争が始まり、第1次世界大戦で欧州から論文が入手できなくなるまでの10年間ほど高木は眠ったかのように空白期が続いた。第1次世界大戦で眼が覚めたかのように、高木は類体論の研究を再開する。 ヒルベルトの枠を超えて、「分岐する類体」を考えるとアーベル体は類体であると了解される。これが高木の定理である。すべてのアーベル体を把握して、一望のもとに観察することが出来たのである。高木貞治氏の類体論は1920年の「相対アーベル体の理論」と1922年の「任意の代数的数体における相互法則」から構成された。前論文は「クロネッカーの夢」の解決であり、後者の論文はガウスからクンマーに継承された、冪剰余相互関係法則を確立した。高木貞治は1920年シュトラスブルグの第6回国際数学者会議の参加して「類体論」を発表した。高木の類体論は1927年「アンチンの相互法則」に受け継がれ、「高木・アンチンの類体論」と称された。「高木・アンチンの類体論」で高木の名声は欧州で確立したといわれ、その影響はフランスのシュヴァレー、エルブランにバトンが渡された。』
高木貞治著 「近世数学史談」は、高瀬成仁著 「人物で語る数学入門」の中ではガウス以降の近代数論の流れを描いていると言える。なぜこうなるかというと、高木氏は類体論という代数的数論の研究者であり、数学史研究家ではないからだろうと思う。時代は19世紀の始め、対象はガウス以降の近代代数的数論である。範囲は狭く、時代は短い(1世紀以内)、つまり系統的ではないが、高木の生で感じ取れる範囲の史論である。だから内容は極めて専門的で、登場する数学者の呼吸が聞こえてきそうなヴィヴィッドな話の展開である。数学史家の書く数学史と数学者の書く数学史の基本スタンスの違いであろう。

(つづく)