ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 斎藤 憲著 「アルキメデス『方法』の謎を解く」 (岩波科学ライブラリー 2014年11月)

2016年01月25日 | 書評
ギリシャ数学史に輝くアルキメデスの求積の技法 第1回

序(その1)

斎藤 憲著 「ユークリッド『原論』とは何か」(岩波科学ライブラリー 2008年)に述べてあることだが、アルキメデスはユークリッドに後れること数十年シチリア島に生まれ、前212年ローマ軍に包囲されて兵士に殺されたといわれる。本書 斎藤 憲著 「アルキメデス『方法』の謎を解く」(岩波科学ライブラリー 2014年)の著者は、前書とおなじ斎藤憲氏であるので、著者のプロフィール紹介は省略する。ギリシャ数学史を専攻する斎藤憲氏の同じアプローチによる双子のような著作である。シチリア島(シュラクサイ)を征服したローマの将軍マルケルルスのことは、1世紀の歴史家プルタルコス「英雄伝」に書かれており、シュラクサイの攻略・陥落およびアルキメデスの活躍ぶりを伝えています。プルタルコスはアルキメデスが作らせた機械の威力を延々と記述し、ローマ軍は投石器、クレーン、集光・投光器などで容易に近づけず持久・包囲戦を余儀なくされたと書いています。アルキメデスの家に乱入したローマ軍兵士に「私の円を乱すな」と一喝したため殺されたとされていますが、真偽のほどは定かではありません。リウィウスの「ローマ建国史」は誰がアルキメデスを殺したかは分からないとしている。とにかく当時の地中海を巡るローマとカルタゴとの第2次ポエニ戦争のなかで、アルキメデスが殺されたことは確かである。前218年カルタゴのハンニバルがスペインからアルプス越えでローマに攻め込んだが、あと一歩というところでなぜは引き上げている。その報復戦でローマの将軍マルケルルスはカルタゴの拠点シュラクサイを攻略したのである。シュラクサイ(シチリア)はいまでこそイタリアに属していますが、ローマに支配されるまでは、東部はギリシャ、西部はカルタゴの勢力範囲にあった。シュラクサイは紀元前733年にコリントスを首都として建国されたギリシャの植民市の一つであった。シュラクサイが歴史上に登場するのは、紀元前5世紀前半(前485年)にゲロンという有能な僭主が現れ、東部シュラクサイから南イタリアまで影響力を持つ国家に成長したことからです。この頃ギリシャ本土はペルシャ戦争(前492-479年)のただ中にあり、ギリシャ連合軍(デロス同盟)が大国ペルシャを破り地中海貿易を独占し植民市を拡大し黄金時代の繁栄)民主制アテネ帝国)を迎えました。ところがシュラクサイではカルタゴとの戦いの方が重要性を持っていました。ペルシャ戦争ではゲロンは、ギリシャとペルシャの両方に通じ二股をかけていました。前478年ゲロンの後を継いだヒエロンはイタリア南部に進出しました。アテネの繁栄は、民主制を取っていたことと密接に関連します。すべては民会で決定されます。そのため弁論術が発展し、それを教えるソフィストと呼ばれる移動教師が珍重された。弁論で人を説得することは、論理学や倫理学を発展させました。世の中の人からソフィストを見なされたソクラテスは大のソフィスト嫌いでしたが、論証数学はソフィストの時代にアテネの出現した言われる。論証数学がピタゴラス(前6世紀)に由来するという説は否定されています。彼らの一派は宗教集団であったからです。アテネ連合帝国は主導権を巡る内戦となり、アテネとスパルタとが長期のペロポネソス戦争(前431-404年)を戦い、アテネは敗北しました。そのアテネの敗北のきっかけは前415年アテネがシュラクサイに大軍を派遣し壊滅したことです。アテネの民主制は廃止され、寡占独裁制そして民主制の復活と迷走を深める中、前399年ソクラテスが死刑になったことは、プラトンの「ソクラテスの弁明」に書かれています。しかし強大なアテネを打ち破った前4世紀のシュラクサイは比較的安定した政体を持っていました。前4世紀前半には民主制よりは哲人王の賢人独裁制を夢見たプラトンは3度もシュラクサイを訪問しています(前388,367、361年)。シュラクサイの僭主制はディオ二ソス1世、2世と続いて、2世の暴政で一度は混乱しますが、ティモレオンの時代に安定し、そしてまた混乱期になります。前4世紀後半はヘレニズム時代になり、前338年マケドニアのフィリッポス2世はギリシャを支配し、その子アレクサンドロス大王インドに至る大帝国を築いた。シュラクサイは前316年僭主アガトクレスの時代にカルタゴを破りアフリカに進出し、イタリア東南部を支配しました。アガトクレス後は前289年民主制に戻り、国制は安定しなかったといわれる。前275年ヒエロンが王となって60年間シュラクサイを統治し安定した政体を保ったとされている。ちょうどアルキメデスの全生涯に重なる時期です。ヒエロン王は第1次ポエニ戦争(前265-241年)にカルタゴと結んでローマに対抗するが、前263年ローマと講和しシュラクサイは安定しました。

(つづく)