ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 丸山真男著 「文明論之概略」を読む 岩波新書

2014年11月29日 | 書評
福沢諭吉の最高傑作を、政治思想史学者丸山真男が読むと 第21回

8) 第7章 「智徳の行われる可き時代と場所を論ず」(その3)

 つぎに第13講「どこで規則が必要になるか」に入りましょう。ここは徳と智の通用する領域を区別し、かつ社会において規則がなぜ必要となるのかを述べます。徳義が成り立つのは家族肉親の中だけです。兄弟は他人の始まりという諺からいうと、家族の中も怪しくなります。無償の愛が通用するのは親子のみでしょうか。徳義の領域には限界があります。福沢は社会問題のすべてが徳義で解決されるという建前が支配している社会を前提として、これを打ち破る議論を展開している。家族と社会の区別を具体的に検証してゆきます。家制度や民法は省略します。家を一歩出ると親戚を含めて社会です。古来社会には本当は利害で結びついている君臣の情宣や「お家」(藩)を中心とした党派心を、福沢は徹底したイデオロギー暴露を行います。ですから社会に出ると徳義だけではどうにもならないことだらけです。そこで規則が必要となります。ロックは「社会契約説」によって、ロバート・フィルマーの家父長的な政治理論に基づく王権神授説を否定し、自然状態を「牧歌的・平和的状態」と捉えて、公権力に対して個人の優位を主張した。自然状態下において、人は全て公平に、生命、健康、自由、財産(所有)の諸権利(固有権)を有するという自然法に従うと唱えた。トマス・ホッブズ(1588-1679)がいう『万人の万人に対する闘争』や外国勢力の侵略に対して、自然法だけでは対応不可能であるので、諸国民の同意によって政府は設立されるとした。立法府ー政治権力は諸国民の固有権を守るために存在し、この諸国民との契約によってのみ存在する。我々は我々の保有する各個の自然権を一部放棄することで、政府に社会の秩序を守るための力を与えたのである。言い換えれば、政府に我々の自然状態下における諸権利に対する介入を認めたのである。政府が権力を行使するのは国民の信託 によるものであるとし、もし政府が国民の意向に反して生命、財産や自由を奪うことがあれば抵抗権をもって政府を変更することができると考えた。トマス・ホッブズやジョン・ロックの社会契約説が中世から近代への突破口となった理由は、『国家権力(社会規範)が、神から王(権力者)へ授与される普遍的な権力(規範)ではなく、人民の相互的な契約によって人工的に創作されたものであり改変可能なこと』を自然状態の理論モデルを通して合理的に説明したからです。福沢は維新直後においてこうした近代法的な考えを持っていました。福沢はこれを「国法」といい、「世の文明を進めるには、規則を除いて他に方便なし」といい、「法の支配」は文明の重要な要因であるとしました。「今日は人民、法を設けて政府の専制を防ぎ、自らを保護するにいたれり、一国の文明を進め、その独立を保たんには、唯この一法あるのみ」と第10章の「自国の独立を論ず」を先取りしています。また経済道徳にも規則が必要で(商法)、卑怯な方法で儲けることは長続きしない、信用の世界を築くために契約や規則があり、悪徳商人を取り締まるのではなく、市場を成り立たせるために規則がある。

(つづく)