ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 丸山真男著 「文明論之概略」を読む 岩波新書 上・中・下(1986年11月 )

2014年11月25日 | 書評
福沢諭吉の最高傑作を、政治思想史学者丸山真男が読むと 第17回

7) 第6章 「智徳の弁」 (その1)

 『この章は智と徳は別物だということを確認するために設けられた。そして福沢は重要なのは智であることを強調するのである。しかし智と徳という対立的な論の立て方は、今からすると言わずもがなの時代遅れの論であることは否めない。智だけの論じても十分なのに、徳を持ってくると回りくどくて、かえって分かりにくい。またこの章の論の立て方は漢文特有の対句の構成でできており、言葉の対立からくる分類の小気味善さはあるにしても内容は希薄である。時代のなせる技だろうか、福沢は漢文の教養をもてあそんでいるようである。徳とはモラルのことで、智とはインテレクト(知性)のことである。ここから福沢は変な分類を始める。私徳と公徳、私智と公智、小智と大智と分けてみるが、それほど納得性があるようにも思えない。古来日本では徳というと私の徳を指し、そしてそれは受け身であることを至善としている。だから福沢は智の働きは広大で重く、徳の働きは偏狭で偏執だと断定する。徳は偏狭な世界であるが、文明は多事の際に進むものであるので、古のような無事単調に安んじてはいられない。世間の多事紛糾を処理するのに私徳ではいかんともしようがない。だから無用だとして捨て去るわけではないが、もっと重要な智と徳の働きと示そうといって、福沢は徳義と智恵の区別を述べてゆく。徳は人の心の中のこと、智は外に対して働くもので利害得失、比較検討、便利と不便、用と無用、近因と遠因などを考えることである。聡明叡智の働きと称すべきものである。徳としてキリスト教の十戒、孔子の五倫は人間最低の倫理で古来動くものではなかったが、それ以上のものでもなかった。これに対して電気通信・蒸気・製紙工業などは皆後からの知恵で追加されたもので、この発明工夫をなすにあたっては聖人の言葉は必要なかった。という風に福沢は儒教を排しながら、教養としての儒教を誇示するかのように延々と引用してゆく。この辺りは今日では飛ばして読んでもいい。徳は他人の伝習を要せず一瞬に会得するものだが、人生は無智からはじまり、学習によって会得してゆくものである。だから人の智はただ教育にある。ここに福沢は生きる意義を見出して教育者に終始したのであろう。儒教を徹底して排した福沢は、返す刀でキリスト教礼賛に対してもこれを退ける。聖教のみに籠絡されて一生を過ごすのは、天性の智性を退縮させることで、詰まることろ人を軽視し人を抑圧するものである。それ以外の工夫をわすれてしまうからである。信は智を曇らせる。そして福沢はキリスト教は果たして文明と言えるのかという疑問を呈するのである。西欧においてキリスト教を奉じる人のほとんどは文明の風に浴したもので、聖教を読むのみならず、学校教育を受けているので文明人と言えるという。だから日本の徳である神儒仏を愚かとして切り捨て、西欧の徳であるキリスト教を意義があるとする者は料簡違いである。宗教を信じるかどうかは本書の目的ではないとしたうえで、西欧と我国の力の歴然とした違いは、徳にあるのではなく我国が必要とするものは智恵以外に考えられない。キリスト教の宗旨も文明の進展によってルターの宗教改革が行われた。したがって宗旨のことは度外視し、これに介入したり、法で支配しようとするのは天下の至愚という。私徳には疑問が多いタヌキおやじの徳川家康が100年の戦乱を終了し、300年の太平を開いた聡明叡智の働きをもって福沢は家康を偉大な人物と評価する。 』

(つづく)