ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 丸山真男著 「文明論之概略」を読む 岩波新書 上・中・下

2014年11月27日 | 書評
福沢諭吉の最高傑作を、政治思想史学者丸山真男が読むと 第19回

8) 第7章 「智徳の行われる可き時代と場所を論ず」(その1)

 『文明は歴史的なものであって、智徳が時代と場所を選択して効能を発揮する(TPO)という意味ではなく、智の働きが極めて弱かった時代と智の働きが旺盛な現代とわけて智徳の働きの特徴を表わし、家族と社会という場所において智徳の働き具合を論じることである。事物の得失・便不便を論じるには、一様にかつ不変として論じることはできない。それぞれ「一時一所」で、それぞれに理由が存在していたというべきである。まず時(歴史)についていえば、野蛮からようやく出始めたころ、人の心を支配していたのは自然に対する恐怖と喜悦であったという。おおよそ天地に間にあるものすべて鬼神の動かすところと信じていた。日本においては八百万の神というところである。このことは自然だけではなく人事(社会)においても然りであった。弱いものは強大なものに依頼し、それを酋長という。酋長は腕力があり、いくらかの智恵があるので弱いものを保護して人望を得ていたが、いつしか特権を握りついには世襲で村長(族長、君長)の地位を伝えた。君長の恩威と愚民の支配が確立すると、すべては君長の恣意的な心が決定することになると、善・不善が半ばし、人民はこの処置に恐怖と喜悦するだけの存在となった。故に一国の君主は偶然の禍福の源となって、君主は人民を超越する何者かに転化した。中国の太古の昔、堯舜の時代には君主一人の働きをもって、父親、教師、鬼神の役割を演じた。仁君明天子の誉、無為にして恩威を垂れる存在であった。これを「唐虞三代の治世」という。恩威と暴威が背中合わせの時代には、ただ徳だけが社会の理想であった。そして人智がようやく開け進歩して科学の法則を探究する時代となると、人が自然を支配できることが分かり、人は身体の束縛を脱し、精神の自由を得て、暴力支配から合理的(道理)支配に進むと、民衆の力が暴威を制する時代となった。従って政府と人民の力関係も一方的な従属関係を脱し、対等もしくは社会契約的な職分の関係となった。君主制のからくりが分かると恩威に萎縮することは無くなり、代議士と言えど公僕であると考え、政府には税金を払ってこれを支え、人民の福祉に答える存在となった。政府は外国の侵略を防ぎ、世の中の悪を止めるだけの道具ではなく、社会経済的事物の順序(秩序)を法によって保証し、効率的なサービスを行うべきものとなった。これを「文明の太平」と呼ぶ。次に文明の時代に徳義が行われるべき場所を考えよう。結論から言うと徳義が行われるのは家族という骨肉の場所だけであり、人の交際(社会)の場所においては、徳とは縁のない約束事が支配する場所に変わる。友人関係、君臣関係などは歴史的に変幻きわまりないところで、裏切り・反逆・殺戮が常態化していて、徳義が一貫して行われたためしはない。徳が通用しているのは家族内のみで、外に出れば徳の力は急速に失せるのが人情である。代って約束・規則が最重要な戒めとなる。証文、法律、条約などは悪を防ぎ善人を保護するために作られる。規則によって社会関係を整理する際には、個人間の信用など徳義のことは一切度外視される。信が破られた時を想定し損害を補償する新たな信用関係を築くものである。ここに規則とか法律の目的が設定される。規則は悪を防止するものであるが、世の中の人が全員悪人であるわけではなく善と悪が混合しているから、善人を保護するため定めるのである。政府と人民の信頼関係を保証するため、規則煩雑な法の支配を受け入れることが、一国の文明を進めその独立を保つために避けて通れない方向である。福沢は「法律蜜にして国に冤罪少なく、商法明にして便利をまし、会社法正しくて大業を企てる者多し。租税の巧みにして私有財産を失うもの少なし。・・・万国公法も粗にして遁る可しといえども殺略を寛にし、民庶会議・著書・新聞は以て政府の過強を平均すべし」と締めくくった。』

(つづく)