ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 高瀬正仁著 「岡 潔 数学の詩人」 岩波新書

2012年01月13日 | 書評
孤高の数学者、多変数関数論の独創の世界を築く 第4回

序(4)

 岡潔ってどんな人だったのだろうかと思いをいたそう。私が岡潔という名を知ったのは、1963年大学1年生のころで、「春夜十話」を読んだ時である。そのころ高木貞治氏の「解析概論」、「微分方程式」や「ベクトル・行列論」を学習し始め、デデキント「数の無限」に悩まされていた頃のことである。奈良女子大教授で文化勲章受章者の数学者が書いたエッセイということで、新聞などでは随分もてはやされた「春夜十話」という本である。多変数関数論という数学分野のことも皆目分らなかった(今でも分らないが)。「春夜十話」のはしがきに、岡潔氏は「人の中心は情緒である。・・・数学とはどういうものかというと、自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術のひとつであって、知性の文字盤に数学という形式に表現するものである」と語る。これでは数学は芸術活動と同じ次元の話となっている。三高時代、岡潔氏は友人に対し「僕は論理も計算もない数学をやってみたい」と語っている。岡の考えでは論理や計算は数学の本体ではなく、表面的なことを追うだけでは答えが見えてこないと思っていたらしい。今まで数学を情緒の表現と言い表した数学者はいなかった。オイラーは「数学は量の科学」であるという言葉を残した。「これは科学者の言葉であるが、岡潔の言葉はあきらかに詩人の言葉である」と著書はいう。それで本書の副題「数学の詩人」と命名したのであろうか。岡潔の数学研究者としてのやり方は、心に芽生えた自分の思い描く数学像のままに、問題群を設定する造型の場に、詩人(芸術家)の心が現れるという意味であろう。能力があれば、思いっきり主観が許される世界を作ることができるのである。岡潔氏の生涯の数学的業績は、10篇の論文に集約されている。そういう意味で岡氏はガウス、リーマン、ヒルベルトの系譜につながる人である。
(つづく)

読書ノート 高瀬正仁著 「高木貞治 近代日本数学の父」 岩波新書

2012年01月13日 | 書評
クロネッカー、ヒルベルトを継いで代数的数論を総覧した 第6回

2) 京都第三高等校・東京帝国大学時代の二人の師 (1)

 高木貞治氏の卒業した岐阜中学校からは、当時の学制では入学できる高等学校は京都にある第三高等学校であった。本科、予科とあるうち、高木貞治氏は予科3年からスタートした。三高には河合十太郎という数学者がいた。河合十太郎氏は加賀藩の出身で関口開の和算を学んでいた。トドハンターのテキストで代数と「三角法」を河合氏から教わった。平面幾何学はパックルの本で、微分積分学はウイリアムソンの本で勉強した。三高の同級生に広島の吉江琢児がいてこの人は高木の生涯の友人となった。河合十太郎氏は吉江にデディキントの「連続性と無理数」を読むように勧めた。実数の連続性の本質を理解する上での里程となった。明治27年高木貞治氏らは三高を卒業した。350人の在学生で卒業できたのは90人であった。アメリカ並みの競争性であったのか、それとも学費が高くて学業が維持できなかったのだろう。その内理科は12人であったという。高木は日清戦争のさなかに帝国大学(東京帝国大学と呼ぶのは、京都帝大が出来た明治30年以降のこと)に入学した。当時は6つの分科大学制で、理科大学に入学した。帝大の数学教育はもっぱらイギリス流であった。それは菊池大麓教授がイギリスに留学したからである。帝大数学科には二人の数学者がいた。菊池大麓教授が数学第一講座と応用数学講座(明治29年から長岡半太郎に代わった)を担当し、藤沢利喜太郎教授が数学第二講座を担当した。高木と吉江の残した「数学ノート」は当時の授業内容を知る貴重な図書となっている。菊池も藤沢教授もテキストが外国の書であり英語で授業をした。菊池は主として幾何学と力学の受け持ちで、藤沢は解析学、微分方程式の担当であった。
(つづく)

文芸散歩  池田亀鑑校訂 「枕草子」 岩波文庫

2012年01月13日 | 書評
藤原道隆と中宮定子の全盛時代を回想する清少納言 第102回

[278] 「関白殿二月廿一日に・・・」(2)

 お手紙は伊周大納言が受け取って関白殿に差し上げられた。殿は「気になる手紙ですね。許されるならば開けて見たいものです」というのだが「大変恐れ多いこと」といって宮に差し上げられた。宮は受け取っても開けないで居られる様子が奥ゆかしい。「あちらに参ってご褒美の品を用意しましょう」と殿が立たれたときに、宮は御文を御覧になられた。ご返事は宮の御衣裳の同じ色のうす紅梅の紙に書かれたのだが、ここまで想像出来る人はいないだろうなと残念な気がした。「今日は特別だ」といって殿は御褒美の品には、女装束一式と紅梅の細長が添えてあった。肴などがあれば酔わさせたいのだが「今日は特別の日ですので、お許しください」と伊周大納言様にもお願いしていった。お姫さまらもおめかしをして紅梅の着物を宮に負けじと着ておられる。中宮定子には三人の妹がいて、次女(中君)淑景舎、三の姫君、末妹は御匣様でいらっしゃった。上様(道隆の室貴子)もいらっしゃってご几帳を引き寄せ、女房らには見えないように隠れなされた。女房らは寄り集って当日の扇・装束などのお話をしていたが、「私はただありあわせで」とか「またあのひとは」とか言って嫌われているの。夜が更けて退出するが多くなるが、こういうときだからといってお引き止めなされることはない。室は毎日来られて夜もいっらしゃいます。姫君たちもおられるので、人少なにならないでいいのでしょう。帝からの使いも毎日やってきます。御前の桜は色は濃くはならないで(造花なので)、日があたって凋み割る久那の冴え口惜しいのに、昨夜の雨で汚くなってしまった。早く起きて「なき別れ顔が台無しね」と申上げたら、宮は「本当に雨の降る気配がしたの、どうしたのかしら」とお目覚めになられた。そのとき殿の方から侍所の人間と下っ端が大勢やって来て桜の木を引っこ抜いてこっそりと帰って往った。「まだ暗いうちにという仰せだったのに夜が明けてしまった。早く早く」といっているのもおかしかった。兼澄の歌を思いだして「その花を盗むのは誰」というと逃げていったの。やはり殿の心栄えは立派ね、みっともなくなった桜を引き揚げるの。
(つづく)

筑波子 月次絶句集 「冬夜獨居」

2012年01月13日 | 漢詩・自由詩
風死雲収犬吠聲     風死に雲収り 犬吠る声

低吟浅酌夜三更     低吟浅酌 夜三更

蕭然対座残燈暗     蕭然対座 残燈暗く

破壁空窓月影明     破壁空窓に 月影明かなり


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(韻:八庚 七言絶句仄起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)