とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

勝手に赤い

2010-09-15 22:30:26 | 日記
勝手に赤い



    親は子を育てたというけれど勝手に赤い畑のトマト   俵万智


 「自分一人で大きくなったと思ったら大間違いだぞ!! 」なんてことを親はよく子どもに言う。そういう私も自分の娘にずいぶん昔言った記憶がある。相手を傷つけた言葉というものはその時の雰囲気とともに案外きちんと覚えているものである。
 作者は、子どもというものは赤いトマトのように「勝手に」赤くのびのびと育つものであると言いたいのだと思う。恩着せがましく親に言われてもそれが真実だと言いたいのである。
 私は、今日、狭い庭で、プランターで育てていたミニトマトとフルーツトマトの後始末をしていた。
 四つのプランターに一本ずつ植えて育てていたが、何しろ狭いのでその四つを引っ付けて置いていたところ、茎が相互にからまりあってジャングルのようなひどいことになっていたのである。それでもたくさん収穫できた。そして、涼しくなるにつれ葉が枯れてみすぼらしくなっていった。
 片付けながら1年生の孫娘が喜んで摘んでいた姿を思い出し、「お疲れさまでした」と心で呟いていた。すると、急にこの歌を思い出したのである。そして、歌の中心語である「勝手に赤い」という言葉が私に妙に絡みついてきたのである。
 「勝手に・・・」??  いや、私は、種をまいて、ポット植えをして、定植して、肥やしをやって、支柱も立てた。そして、猛暑の中の毎日の水かけ。毎日私はトマトのことを気にかけていた。こんなにトマトの世話をしてやっている。だから家のトマトは「勝手に赤い」なんて言ってもらっては困る。私が居たからたくさん実をつけ、家族に喜ばれたんだ。
 私は、そう思い、内心その歌に反発していたのである。
 おいおい、この歌は人間の子どもが成長する姿をたまたま畑のトマトに喩えたにすぎないじゃないか。
 私のもう一つの心がそう慰めた。
 私はいつの間にか剪定ばさみでトマトの茎をぐしゃぐしゃに切り刻んでいた。
 その切れ端の山を見つめながら私は気持ちを落ち着かせようと焦っていた。
 どうして世話をしたことを強調したいのか。私は自分で自分の心が分からなくなった。
 そこへ孫が帰ってきて驚いて叫んだ。
 「おじいちゃん、トマトさんどうして切ったの !!」
私は即座に答えることができなくなっていた。
 しかし、残骸を見つめているうちに、何かしらこみ上げてきて、眼がうるんできたのである。

 
 

新作への展開

2010-09-14 22:50:40 | 日記
新作への展開



 前回をもって過去の投稿記事の掲載を終了しました。まだ、たくさん残っていたのですが、割愛しました。次回よりリアルタイムに返ります。
 何を書くのか。それは、私のありのままの生活感情であります。俗人、凡人である私semotoがまだここに生きている証として、時には真面目に、ときにはおどけて、書き続けたいと思います。引き続きお付き合いをお願い申し上げます。

璋という名前

2010-09-13 10:36:30 | 日記
璋という名前



 川端玉章という日本画家がいた。私はその雅号の「玉章(ぎょくしょう)」に親しみを感じている。玉を玉偏と考えて、左側に付けると、「璋」という字になる。この字の偏は「たまへん」である。偏には点(、)が付いていない。だから「おうへん」とも言う。
 さて、他に「璋」が付く名前がないか? あるある。池内璋美(あきよし)。堂本印象に師事していた日本画家である。平成十年の日展に出品した「しじま」が特選となった。フランスのボンヌの町にある石造りの洗濯場を描いていた。私は、その静かな風景に引き込まれてしばらく見入っていた。日展というと真っ先に思い出す作品である。……そうだ、朱元璋もいる。中国明朝の初代皇帝である。いやはや、これは畏れ多い。無礼のついでに待賢門院璋子(しょうし)を挙げよう。これは鳥羽天皇の美貌を誇った中宮である。隣の鳥取県には柳宗悦の指導を受けた吉田璋也という民芸運動指導者がいる。島根県には、右の川端玉章に師事した田中頼璋がいる。旧瑞穂町出身の円山四条派の日本画家で相当人気がある。私も特に山水画が好きである。
 「璋」という字にえらく拘ったが、この字には「玉(ぎょく)製の笏(しゃく)」という意味がある。だから、昔は人名によく用いられた。私はこの文字を見かけると、一瞬ドキッとする。実は私の「あきら」はこの字があててあるのである。父に聞いた話では、どこかのお宮の宮司さんに付けてもらったとか。私の場合は、どうやら名前負けしているようである。「璋」は右のような立派なお方にふさわしい文字である。だから宮司さんには申し訳ないが、「あきら」と表記している。やはりこれが一番落ち着くようである。(2007年投稿)

屏風が出た!

2010-09-13 10:32:21 | 日記
屏風が出た!



 最近私は江戸時代の画家にも興味を持ち始めた。狩野派は幕府お抱えの一派で、探幽に代表される。土佐派の光起は宮廷の絵所預となり、土佐派を再興し、狩野派に対抗した。岸派の岸駒(がんく)は、そういう中で個性的な世界を切り開いた。
 私は、毎日欠かさずネットオークションに出品される作品を見ている。夥しい作品の中から、好みのものをチェックしておいて、どの位の値がつくか見届ける。十万単位まで競りあがるとあきれてしまって、手出しをしたりしない。この世の中、金があるところにはあるもんだなあ、などと冷ややかになる。
 そんなある日、何気なく「光起」と入力すると、六曲一双の豪華な金屏風が画面一杯に浮かび上がってきたのである。絵柄は平安末期のころの風俗である。私は、最初誰のものか分からなかった。しかし、「土佐将監光起」の署名を見て、心中、あっと叫んだ。まさか……、という気持ちになったが、鑑定書を確認すると、背筋がぞくっとした。欲しい! という気持ちがしきりに湧いてきた。反面、こういう文化財は私物化すべきものではない、という気持ちにもなった。かくして、私は数日間、その屏風のことばかり考えていた。そして、一つの結論に到達した。「美術館に連絡して買い取って貰おう」。即刻私はある美術館に電話した。ところが、「せっかくですが、うちは、近代から現代の作品が蒐集のメインですので……」という返事が返ってきた。私はがっかりした。
 ……それで、その屏風はどうなったか、話したくないのですが、約五十万で、ある個人が落札しました。私は文化財が商品化する現実を見て、自らの行為を振り返り、大いに反省しています。               (2007年投稿)

和製ミュシャ

2010-09-13 10:26:30 | 日記
和製ミュシャ



大正から昭和にかけて美しい女性像を描きつづけた日本画家がいる。中でも竹久夢二はあまりにも有名だが、同時代の高畠華宵(たかばたけ・かしょう)はその影で光が薄れてしまったようである。
 私は、ネット・オークションの作品群を訪ね歩いていて、和製ミュシャと説明されている洋風の豪華な衣装を身に着けた女性が月を見上げて何か祈っている華宵の作品に出会った。(こりゃ、蕗谷虹児の絵にも通じるところがあるが、ここまでデフォルメする画家は初めてだな)などとしばらく見とれていたのである。
彼は絵を寺崎広業に学んだ。しかし、最初の頃はひどい貧乏暮らしだったという。だが、津村順天堂の「中将湯」の新聞広告を描いて一躍有名になった。絵が醸し出す憂いを帯びた艶やかな風貌の女性像は人々の心を捕らえた。じっと見ていると、一種退廃的な雰囲気も感じられる。華宵は絵が売れ出すと、たちまち豊かになり、贅沢をきわめた生活をし始めたという。
谷崎潤一郎の作品に『痴人の愛』がある。その英訳版の表紙に彼の絵が採用された。このことは彼の画風を知る一つの例である。ポイントは眼と口許である。男ごころを引き付ける妖しげな魅力がある。また、美少年ものも手がけていて、女性のような若侍が横笛を吹いている作品もある。これらは女ごころをくすぐるものと思われる。彼の絵をあしらった便箋は飛ぶように売れたという。
愛媛県宇和島市出身で、東京都文京区弥生の弥生美術館には華宵の作品が三千点所蔵されている。隣には夢二美術館もある。乗り物に弱い私は足を運ぶには相当の勇気がいる。しかし、実物を一目見たいものだと切に思っている。(2007投稿)