私は「大工さん」という名前にユーモアを感じて親しい気持ちになっていました。唄声は名人の大工さんです。滑らかな声質。よく響く声量。表情が明るい。人柄の良さを感じます。姉弟かな兄妹かな。家族が醸し出す温かさ。それもまた魅力です。
Carpenters - Top of the World & We've Only Just Begun
ダウニーにて
カーペンター家はニューヘイブンの家が売れず、経済的に苦しかった。そのため家族は最初にShoji Apartments(現在はThe Pinecrest Apts、12020 Downey Avenue, Downey, CA)に移り住んだ。最初はShojiアパートの22号室であったが、数か月後に向かいの大きな23号室に移り、約1年間過ごした。
1965年の11月、父であるハロルドはようやくダウニーのフィドラー・アベニューに家族向けの一軒家を手に入れて移り住んだ。(リチャードはストーリーブック・ハウスと呼んでいる)この家が建っていた場所はパラマウントとベルフラワーの境界に位置していたため、高速105号線の建設でちょうどこの場所だけが取り壊され、歴史的建造物であることを惜しむ声も上がった。カーペンター一家はこのフィドラー・アベニューの家に1971年まで住み続けた。
兄妹の生い立ち
リチャード・リン・カーペンターは1946年10月15日、妹カレン・アン・カーペンターは1950年3月2日生まれである。リチャードは父親の膨大なレコード・コレクションを聴き、ピアノの練習に熱心だった。[6]。一方カレンは親しみやすく外向的でスポーツを好んだが、兄と一緒に音楽を聴くことも多かった[6]。
1963年6月、両親のハロルドとアグネスは家族を連れてカリフォルニア州ロサンゼルス郊外のダウニーに移り住んだ。リチャードを音楽業界へ近づけることと、カレンと父がニュー・イングランドの厳しい冬を嫌ったための移住であった[7]。同年の秋からリチャードはダウニー高校へ通い、体育の代わりにバンドを選択科目とした。後にカレンも、これを参考にして選択を体育から音楽に変更した。音楽教師のブルース・ギフォードは、リチャードが「ラプソディ・イン・ブルー」を指示されて演奏するのを聴いて、リチャードのピアノ奏者としての才能を認めた[3]。
翌年度からリチャードはカリフォルニア州立大学ロングビーチ校へ通い、将来の作曲パートナーとなるジョン・ベティスと出会った。ベティスの協力のもとに、リチャードはやがて「トップ・オブ・ザ・ワールド」、「愛にさよならを」、「オンリー・イエスタデイ」といったヒット曲を生み出していく。またリチャード・カーペンター・トリオでベースやチューバを演奏することになるウェズリー・ジェイコブズや、1966年にクリスマス・ソングのスタンダード「メリー・クリスマス・ダーリン」を共作するフランク・プーラーらと知り合ったのもこの学校でのことである[8]。
カレンは、1964年にダウニー高校へ入学し、ドラム演奏の才能を見せはじめた[3]。カレンは、運動は好きだが体育の授業は嫌いだったと述べている。カレンは体育から逃れるため、カリフォルニア州立大学学生であったリチャードに、やはり同様に体育からマーチング・バンドを選択できるように、教師を紹介してもらい[9]、結果、ダウニー高校マーチング・バンドの一員となることを認められた。1963年、リチャードを教えていた教師のブルース・ギフォードは、カレンにグロッケンシュピールを担当させたが、カレンは気に入らなかった。あるインタビューでカレンは、「演奏に不便で運びにくく、バンドの演奏よりも常に4分の1音高い音を出すことなどに苛立っていた」と述べている[10]。
その後間もなくカレンは、友人でありバンド仲間のフランキー・チャベスからドラムの演奏を勧められ、チャベスのセットを借りてドラムを教わった。「基礎から始めて2人で何時間も練習したのだろう」とリチャードは語っている。1964年に両親からラディックのドラムセットを買って貰ったころには、カレンの腕前はプロ並みに上達しており、リチャードが後年のドキュメンタリー『リメンバー・ザ・カーペンターズ』("Close to You:Remembering the Carpenters")で語っているところによれば「エキゾティックな拍子記号の列を叩き出せるほどになっていた」[11][12]という。
初期の活動
1965年まで1年間カレンはドラムの練習に励み、リチャードは教師フランク・プーラーの指導の下でピアノを練習した。兄妹はジャズ・トリオの結成を真剣に考えるようになり、親しくなったウェス・ジェイコブズとバンドを結成[8]。ドラムはカレン、ピアノはリチャード、ベース/チューバはジェイコブズという編成のジャズ・トリオで、「リチャード・カーペンター・トリオ」と名乗った。1966年、トリオはハリウッド・ボウルで毎年行われていた "Battle of the Bands" (いわゆる対バン形式のコンテスト)に出場し、「イパネマの娘」のインストゥルメンタル・ヴァージョンや自作曲「アイス・ティー」を演奏した。1966年6月24日、トリオはこの大会で優勝し、RCAレコードとの契約を勝ち取った[3]。そこで彼らはビートルズの「エヴリー・リトル・シング」やフランク・シナトラの「夜のストレンジャー」("Strangers in the Night")などといった曲を録音した。しかし、RCAとの契約はすぐに打ち切られる[13]。
1966年、ロサンゼルスのベース奏者ジョー・オズボーンが所有していたガレージ・スタジオで深夜にセッションが行われることとなり、そこでオーディションを受けるトランペット奏者の伴奏を務めるために参加することとなったリチャードに、カレンも同行した[12][14]。この時、ためしに歌ってみるようオズボーンから頼まれたカレンの声のすばらしさが認められ、1966年5月13日、カレンはオズボーンが立ち上げたばかりのレーベル、マジック・ランプ・レーベルとソロ・アーティストとしての短期レコード契約を結ぶこととなった。このレーベルからはリチャードが作曲した「ルッキング・フォー・ラヴ」("Looking for Love")と「アイル・ビー・ユアズ」("I'll Be Yours")を収録したシングルが制作されたが、レーベル自体がその後すぐに消滅。しかしオズボーンは、カレンとリチャードがA&Mレコードからのオファーを受けることとなる1969年まで、2人にデモ・テープの録音を続けさせた[15]。
1967年、リチャードとカレンはカリフォルニア州立大学ロングビーチ校の学生ミュージシャン4人と共に、「ザ・サマーチャイムズ」という名のセクステット(6重奏団)を結成した。やがて「スペクトラ」と改名し、最終的には「スペクトラム」の名に落ち着いた[12][16]。グループはジョリー・ナイト・ステーキ・ハウスやウィスキー・ア・ゴーゴーなどで頻繁に演奏するようになった[15][17]。スペクトラムはレコード会社と契約を交わせなかったが、同じバンドのメンバーであると同時に、のち1983年のカレンの死まで多くの楽曲の共作者となるジョン・ベティスと、リチャードは親交を深めた。
1968年、スペクトラム解散。リチャード・カーペンター・トリオのウェス・ジェイコブズは、ベースとチューバを演奏していたが、デトロイト交響楽団へ加入するためグループを去った(1970年首席チューバ奏者となった)[18]。リチャードとカレンは1968年の中ごろにテレビ番組"Your All American College Show"から出演依頼を受けた。全国の大学からさまざまなグループを集めてコンテストに参加させるオーディション番組であった。兄妹はマーサ&ザ・ヴァンデラスの曲 "Dancing in the Street" で参加することとしたが、バンドを去ったジェイコブズの代わりとなるベース奏者が必要となり、オーディションを行った。結局、そのテレビ出演だけの臨時参加という形でビル・シショフが選ばれた[3]。一時的なメンバーを加えたリチャード・カーペンター・トリオは1969年6月22日にテレビデビューを飾った。この演奏が、リチャードとカレンにとって初めてのテレビ出演でもあった。この出演を最後にリチャード・カーペンター・トリオは最終的に解散し、レコード会社からのオファーを待つこととなる。
当時はジミ・ヘンドリックスやビートルズ、ジャニス・ジョプリン、ローリング・ストーンズなどロックグループが主流だった。しかし、リチャードとカレンは自分たちの路線を貫き、二人は友人たちの手を借りながらさまざまなレコード・レーベルにデモ・テープを送り続けた。それがA&Mレコードの共同所有者でありトランペット奏者・ヴォーカリストでもあるハーブ・アルパートの関心を惹いた。このアルパートがリチャードとカレンを世に送り出すことになる。
カーペンターズ
1969年4月22日、リチャードとカレンは「カーペンターズ」名義でA&Mレコードとの契約を結んだ。当時の州法で19歳のカレンは未成年者だったため、両親も署名した[3][19]。兄妹はあえて定冠詞 "The" の付かない"Carpenters"を契約上の名義とすることに決めた("The Carpenters" は「カーペンター兄妹」ないし「カーペンター家」を意味するが、"Carpenters" だけでは「大工たち」の意味になる)。その理由についてリチャードは、2004年に発売された "Gold:35th Anniversary Edition" のライナーノーツにおいて、バッファロー・スプリングフィールドやジェファーソン・エアプレインのように、「ザ・〜ズ」ではないバンド名のほうがかっこいいと思ったからだと述べている[注 1]。
A&Mレコードとの契約において、リチャードとカレンはスタジオ内での自由を与えられた[12]。『オファリング』と題されて1969年にリリースされた彼らの最初のアルバムには、リチャードがスペクトラム時代に作曲ないし共作した楽曲もいくつか収録されている[20]。このアルバムにおける人気曲は、ビートルズのヒット曲をバラード風にアレンジした「涙の乗車券」で、ビルボード・ホット100で最高54位、アダルト・コンテンポラリー・チャートでトップ20位入りするなど、まずまずのヒットとなった[1][21]。この曲の成功を受けて、『オファリング』は1970年に『涙の乗車券』へと題名を変えて再発された。
アルバム『涙の乗車券』のチャート・アクションは今一つ振るわなかったが、リチャードとカレンはバート・バカラック/ハル・デヴィッド作の「close to you」でついに成功を手にする。このシングルは1970年にリリースされて初登場56位となり[22]、1970年7月22日にはチャート1位に昇りつめ、4週にわたって首位の座を守った[12]。また1970年ビルボード誌年間ランキングでは第2位となっている。ベストセラーとなったアルバム『close to you』の収録曲からはこの曲と「愛のプレリュード」がRIAAによってゴールドディスクに認定され、同アルバムは『ローリング・ストーン』誌による『偉大なアルバム500選』("500 Greatest Albums of All Time")の175位にも選ばれている[23]。その年の最優秀新人部門をはじめとする2つのグラミー賞も受賞した。
「Close to You」が1位となった直後に、カーペンターズがカヴァーした「愛のプレリュード」(ポール・ウィリアムス/ロジャー・ニコルス作)がビルボード・ホット100で第2位となり、アダルト・コンテンポラリーチャートでは首位を7週間保持した。リチャード自身もこの曲はグループの「代表曲」だと認めている[1][12]。この曲はもともとウィリアムズとニコルズがクロッカー・ナショナル銀行のテレビCM曲として前年に作曲したものだが、リチャードはテレビで聴いたときにその曲のヒット性にいち早く気づいたのである。「愛のプレリュード」はウィリアムズとニコルズにとって初のヒット・シングルとなった。
2人はその年の締めくくりとして、クリスマス・ソング「メリー・クリスマス・ダーリン」をリリースした。この曲は、カリフォルニア州立大学時代に2人の参加していた合唱団の監督を務めていたフランク・プーラーとリチャードが共作した作品で、1970年のビルボードのホリデイ・チャートで上位にランクインして、翌年以降も同チャートにたびたび登場した。
一連のヒット・シングルやアルバムによって、カーペンターズは1970年代を通じてヒット・チャートの常連となった。1971年のヒット曲「ふたりの誓い」は、元はサイ・ハワード監督による1970年の映画『ふたりの誓い』の結婚シーンのためにレコーディングされたものである[24]。映画館でこの曲を聴いて気に入ったリチャードは、その後間もない1970年秋にこの曲を録音し、カーペンターズにとって3枚目のゴールド・シングルとなった[25]。
続いて送り出された「雨の日と月曜日は」はビルボード・ホット100の第2位を記録し[1]、ポール・ウィリアムズとロジャー・ニコルスにとって2曲目のヒット・シングルとなった。カーペンターズの評伝を著した作家コールマンは、「雨の日と月曜日は」をおそらく最もポピュラーなカーペンターズの楽曲であろうと評している。さらにこの曲はカーペンターズ第4のゴールド・シングルとなったが、1位獲得を阻んだのはキャロル・キングの「イッツ・トゥー・レイト」("It's Too Late")だった[26]。
レオン・ラッセル/ボニー・ブラムレット作曲のシングル「スーパースター」はカーペンターズの次の代表曲となり、ここで聴かれる痛切で心に残るカレンの歌声は高い評価を受けている。この曲もビルボード・ホット100で第2位となった[1]。1971年には彼ら自身の名をタイトルとしたアルバム『カーペンターズ』(日本盤タイトルは『ふたりの誓い』→『スーパースター』→『カーペンターズ』と改題された)がリリースされた。この作品は彼らにとって最も売れたアルバムの1つであり、RIAAのプラチナムを4度にわたって獲得(売上400万枚以上)している[27]。この作品でカーペンターズはグラミー賞(Best Pop Performance by a Duo or Group with Vocal)を受賞し、3部門でノミネートされた[28]。
1972年にリチャードはエレキギターによるソロを導入したバラードを考案した。後にこうした形態の曲をハードロックやヘヴィメタルのバンドが継承して Power ballad と呼ばれる1ジャンルにまでなったことから、リチャードがこのジャンルの先駆者とみなされることもある。この曲「愛にさよならを」はリチャードとベティスによって作曲されたもので、カーペンターズが1972年に出した2枚目のシングルとして最高7位を記録した[1]。「愛にさよならを」はビング・クロスビー主演の映画 "Rhythm on the River" に着想を得たものである[29]。この映画は1940年に制作され、作中にはベイジル・ラスボーンが演じる作曲家が登場する。この作曲家は歴史上最も美しい歌 "Goodbye to Love" の作者として有名という設定である。リチャードによれば、この曲は映画の中に言及があるだけで演奏されてはいなかったが、同名の曲を自分で書こうと思いつき、1972年にベティスと共作するまでそのアイディアを温めていたという[12][29]。2人はリードギタリストとしてトニー・ペルーソを招き、A&Mのスタッフもペルーソの大胆なソロに満足した。これを機にペルーソは1983年までカーペンターズの伴奏者を務めることとなった。しかし、ファンの中にはカーペンターズのレコードにエレキギターのソロが入ることに不満を抱く者も少なくなく、嫌がらせの手紙を送りつける者さえいたという[12][30]。
1973年リリースのアルバム『ナウ・アンド・ゼン』のタイトルは2人の母アグネス・カーペンターの案による。この作品には『セサミ・ストリート』で挿入歌として使用された楽曲「シング」や、昔のラジオを懐かしむ懐古的な歌詞の「イエスタデイ・ワンス・モア」などが収録されている。日本とイギリスでのカーペンターズ最大のヒット曲である「イエスタデイ・ワンス・モア」はアルバムのB面1曲目に収録され、その後に60年代前半にヒットした例えばスキータ・デイヴィスの「この世の果てまで」などのオールディーズのメドレーが続き、聴き物となっている。
カーペンターズにとって初となるベスト・アルバムは "The Singles:1969-1973" と題され、アメリカとイギリスでアルバムチャートのトップに立っている。特にイギリスにおいては、1974年7月13日にエルトン・ジョンの『カリブ』にトップを奪われるまでトータル17週も首位に立ち[31]、70年代に最も売れたアルバムのひとつとなっている。また、このアルバムはアメリカでも2008年までに700万枚以上を売り上げ[27]、7倍のマルチ・プラチナ・ディスクを授与されている[27]。
このベスト・アルバム用に新たに作り直され、アルバムの先行シングルとしてリリースされたのが「トップ・オブ・ザ・ワールド」である。1972年リリースのアルバム『ア・ソング・フォー・ユー』に収められていたこの曲のアルバム・ヴァージョンを聴いたカントリー・シンガーのリン・アンダーソンがこの曲をカヴァーして1973年にリリースすると、リチャードとカレンも自分たちもシングルとしてリリースするべきかどうかについて議論した。A&Mの仕事仲間であったギル・フリーセンは、アルバム『ア・ソング・フォー・ユー』からはすでに4枚ものシングル(「ハーティング・イーチ・アザー」、「愛にさよならを」、「小さな愛の願い」、「愛は夢の中に」)をカットしていることを理由に反対したが[32]、それにもかかわらず、一般からの需要は高いという判断により「トップ・オブ・ザ・ワールド」を1973年9月にシングルカットされ、同年12月にビルボードHOT100において2週連続で1位となり、カーペンターズにとって2枚目の全米1位シングルとなった。[33]
1970年代後半
カーペンターズは1974年には新しいアルバムを発表しなかった。リチャードはこれについて「単に時間がなかったから。アルバムを作る気分にもなれなかったし」と語っている[34]。その代わりに、2人はポール・ウィリアムズ/ロジャー・ニコルズ作曲のシングル「愛は夢の中に」をリリースしている。これはもともと1972年のアルバム『ア・ソング・フォー・ユー』に収録されていたものだが、カーペンターズはそのLPをリリースした2年後になって、この曲をシングル・カットすることを決定した[35]。1974年3月、そのシングル・ヴァージョンはビルボード・トップ100チャートの11位に達し、アルバム『ア・ソング・フォー・ユー』からの5番目のトップ20ヒットとなった。
一方、同1974年には『ナウ・アンド・ゼン』に収録されたハンク・ウィリアムズの「ジャンバラヤ」をアップテンポにリメイクした。この曲はアメリカでシングルとしてリリースされたほか、日本のチャートでも30位以内にランクインし、イギリスをはじめとする他の多くの国でもヒットした。オランダでは、カーペンターズにとって最大のヒット曲となったほどである[36]。また1974年の暮れには、ジャズ調の編曲を施したクリスマス・ソング「サンタが街にやってくる」をシングルとしてリリースしている。
1975年はまだ彼らにとって多作の年であった。マーヴェレッツが1961年にチャート1位を獲得したヒット曲で、モータウン・サウンドのクラシックであった「プリーズ・ミスター・ポストマン」をカヴァーしたシングルがヒット。これは1974年にリリースしたものだが、75年の1月にビルボード・トップ100で1位を獲得し、彼らにとっての3度目の(そして最後の)首位獲得作品となった。このシングルはまた、カレンとリチャードにとっての12番目のアメリカでのミリオンセラーにもなった。日本ではこのシングルが最高の売上枚数を記録している[37]。
「プリーズ・ミスター・ポストマン」に続き、春にはリチャードとジョン・ベティスの共作「オンリー・イエスタデイ」がビルボードで4位まで上昇し、これは彼らにとって最後のアメリカでのトップ10ヒットとなった[38]。リチャードとベティスはこの曲がヒット・シングルになるとは思っていなかったので、ロジャー・ヤングとの賭けでトップ5入りしない方に賭けており、2人はヤングに1000ドル支払うはめになったという[39]。
1975年の上半期に成功を収めたこの2曲はいずれも1975年のアルバム『緑の地平線〜ホライゾン』に収められている。このアルバムはほかにもイーグルスの「デスペラード」とニール・セダカの「ソリテアー」のカヴァーを収録しており、これらも同じ年に中ヒットを記録した。このアルバムのジャケットは、日本人デザイナーの長岡秀星の代表作のひとつである。ただし、以降彼らのレコード・セールスは次第に下降線を辿り始めた。『緑の地平線〜ホライゾン』はプラチナム・アルバムに認定されたが、その後(アルバムからの2枚目のシングルがチャートから消えて以降)カーペンターズにとっては初めてマルチ・プラチナムに達することのなかったアルバムとなった。
1976年6月11日に発売された次のアルバム『見つめあう恋』も、ゴールド・ディスクには認定されたものの、彼らにとってはファースト・アルバム『涙の乗車券』以来の7年間で初めてプラチナ獲得に至らなかったアルバムである。それでも1976年のシングル・リリースは成功を収めていたが、当時のヒット・ラジオ番組は音楽的スタイルを変化させており、ついにはカーペンターズのような「ソフト」なグループの多くを苦しめるようになった。カーペンターズのその年最大のポップ・シングルはハーマンズ・ハーミッツのカヴァー「見つめあう恋」で、最高12位であった。カレンの最も好きな曲といわれる「青春の輝き」はビルボード・ホット100では25位にとどまったが、アダルト・コンテンポラリー・チャートでは「見つめあう恋」に続き14枚目となる1位を獲得した。これは同チャートの歴史上他に類を見ない記録となった。
彼らの功績の1つとして数えられることは少ないが、カーペンターズはアメリカでは最も早く自分たちのレコードの宣伝のためにミュージック・ビデオを制作したグループの1つである。1975年の初めに、彼らはディズニーランドで「プリーズ・ミスター・ポストマン」の演奏を撮影しているほか、「オンリー・イエスタデイ」をハンティントン・ガーデンで収録しているが、ここでのカレンは健康で調子良さそうに見える。しかし、1年後に撮影した「見つめあう恋」のビデオに出演した時には目に見えて違いが現れるようになっていた。
1977年から1979年にかけてディスコ・ブームの真只中であり、カーペンターズやジョン・デンヴァーら大人向けの「イージー・リスニング」のアーティストは、ラジオなどで放送される機会がやや減りつつあった。1977年にリリースされたカーペンターズの実験的なアルバム『パッセージ』は、他の音楽ジャンルへ挑むことによって、より多くの層へ訴えかけようとする試みであったが、ラテン音楽(「一人にさせて」)、カリプソ(「恋の強がり」)、ポップ・ソング(「想い出にさよなら」、「あの日、あの時」)という不釣合いな混ぜ合わせに、「ふたりのラヴ・ソング」(アダルト・コンテンポラリー・チャート4位)、「星空に愛を(コーリング・オキュパンツ)」といったヒット曲を抱き合わせたというものである。最も有名な曲、ミュージカル『エビータ』から取られた「月影のバルコニー〜泣かないでアージェンティーナ」やクラトゥの「星空に愛を」などのカヴァーはいずれも合唱とオーケストラによる伴奏が加えられた。シングル「星空に愛を」はイギリスではヒットしたが、アメリカのポップ・チャートでは32位止まりとなり、カーペンターズとしては初めてゴールド認定となる50万枚の売り上げに達することのなかったアルバムとなった[40]。
リチャードは『パッセージ』収録曲の「想い出にさよなら」は、きっとヒットすると感じていたため、A&Mにシングルでのリリースを決断させた。この曲はアン・マレーのシングルとして発売され、1979年のアダルト・コンテンポラリーおよびカントリー・チャートの両方で1位を獲得し、リチャードの感性の正しさを証明した。カーペンターズによる「ふたりのラヴ・ソング」と「星空に愛を」のミュージック・ビデオがDVD"Gold:Greatest Hits"で観ることができる。
国内チャートでの成績はやや振るわなくなってきたとはいえ、カーペンターズはまだ十分な人気を維持していた。1978年の初めには、アップテンポでフィドルを加味した「スウィート・スマイル」がカントリー・チャートで意外にもトップ10入りを果たした(ビルボード・ポップ・チャートではトップ40に若干及ばなかったが、アダルト・コンテンポラリーで7位、カントリー・チャートで8位を獲得した)。この曲は後年カントリーやポップのスターとなるジュース・ニュートンが作曲したものである。イギリスでは2作目のベスト・アルバム"The Singles:1974-1978"が発売された。一方アメリカではカーペンターズ初のクリスマス・アルバム『クリスマス・ポートレイト』が発売されてその季節の人気作品となり、勢いの衰えはじめたこの時期にあっては意外な売れ行きを見せ、カレンとリチャードに再びプラチナムをもたらした。
1980年代初頭
1979年、リチャードはカンザス州のリハビリ施設で薬物依存症からの回復を試みる。その間にカレンはニューヨークに渡って、プロデューサーにフィル・ラモーンを迎えた初のソロ・アルバムの制作を決意する。彼女はこのアルバムのためにより大人向けでディスコ調の作品を選び、これまでのイメージを払拭しようと努めた。だが、1980年の初頭に完成したソロ作品に対し、リチャードやA&Mは難色を示した。カレンにとっては不幸なことに、このアルバムは発表しないものとする決定が下され、この作品の制作費として印税から50万ドル以上の負債を請求されたのである。この決定に怒りを覚えつつも、ある面では慣れぬ仕事から解放されたカレンは、依存症から立ち直った兄と新しいアルバムの制作にとりかかる。お蔵入りになったカレンのソロ・アルバムは1996年10月に『遠い初恋』としてリリースされるまで未発表だったが、録音された楽曲のうち4つは1989年のカーペンターズのアルバム『愛の軌跡〜ラヴラインズ』の中で日の目を見た。その際に「イフ・アイ・ハド・ユー」はシングルとしてリリースされ、アダルト・コンテンポラリー・チャートで20位以内にランクインした。
カーペンターズは1980年に『Music』と題されたテレビの特番に出演し、エラ・フィッツジェラルドやジョン・デヴィッドソンをはじめとする著名なゲストと共演した。これはカレンがトム・バリスと結婚したのと同じ年に撮影されたもので、この時期のカレンは比較的健康な体重を取り戻していた。[12]。
1981年6月16日にリリースされたカーペンターズのデュオとしての次なるLP『メイド・イン・アメリカ』は、商業的には失敗に終わった。この作品はアメリカでは、カレンが亡くなる1983年初頭までは20万枚ほどしか売れていなかった。しかしながら、アルバムからシングル・カットされたロマンティックな「タッチ・ミー」はHot100で16位まで上昇し、全米ポップ・チャートにおける彼らの最後のトップ20ヒットシングルとなった。この曲はビルボードのアダルト・コンテンポラリー・チャートでは彼らにとって15番目の首位記録作品でもある。
カレンのトーマス・ジェイムズ・バリスとの結婚や、彼女が患っていた拒食症などの個人的な問題は、グループの復帰に暗い影を落とした。瞬く間に恋に落ちたあと、カレンは不動産業者のバリスとの結婚式をビバリーヒルズ・ホテルのクリスタル・ルームで盛大に行った。1980年の8月31日に挙げられたこのセレモニーの中で、カレンは翌年に「タッチ・ミー」のカップリングとしてリリースされる、リチャードとベティスが書き下ろした楽曲「ウエディング・ソング」を披露している[41]。
だが、結婚してから1年ほどの間に、彼女の容姿は変わり果てていった。『メイド・イン・アメリカ』の販売促進用に制作されたビデオで窺えるその姿は、もはや彼女が重病人であったことを裏付けるのに十分な証拠といえるものであった。カレンとバリスの結婚生活は惨憺たるものであり、彼らは1981年の終わりには別居する。1982年、カレンは障害の診療を受けるためニューヨークの著名な心理セラピスト、スティーブン・レベンクロンを訪ね、この年の11月には仕事に復帰して離婚手続きを完了するためにカリフォルニアへ戻った。カレンの甲状腺は通常のものであったが、新陳代謝を加速するために甲状腺の薬を通常の10倍服用していることが分かった。これに加えて大量の下剤(日に90錠から100錠)を服用していたことが、彼女の心臓を弱める原因となった。
カレンの突然の死
ニューヨークの病院での2か月以上にわたる治療を経て、カレンは30ポンド(13.6キログラム)以上も体重を戻したが、急激な体重の増加は、長年の無理なダイエットですでに弱っていた彼女の心臓に、さらなる負担をかけてしまった。1983年の2月4日の朝、カレンはダウニーの両親の家で心肺停止状態に陥ってダウニー・コミュニティ病院に運ばれるが[42]、それから20分後に死亡が確認された。彼女はその日、離婚届へ署名するつもりであったという。
検死によると、カレンの死因は神経性無食欲症に起因するエメチンの心毒性であった。解剖学的な結論としては、心臓麻痺が第1の原因で、拒食症は第2の原因であった。第3に挙げられるのが悪液質で、これは負担や衰弱としては非常に軽いもので、慢性的な疾患と関連した一般的な体の衰えというべきものであった。エメチンの心毒性が死因であったことは、カレンが当時は簡単に入手できた薬である吐剤(誤って毒物を摂取してしまった人が即座に嘔吐できるようにするためのもの)を悪用していた可能性を示唆したが、明確な証拠はない[43]。
彼女の告別式は1983年2月8日火曜日にダウニーの統一メソジスト教会で執り行われた。カレンは白い開いた棺にピンクのドレスを着せて横たえられ、およそ1,000人の会葬者が最後の別れを告げた。会葬者の中には、ドロシー・ハミル、オリビア・ニュートン=ジョン、ペトゥラ・クラーク、クリスティナ・フェラー、ディオンヌ・ワーウィックといった彼女の友人たちがいた。別居中であったカレンの夫も葬儀に出席し、結婚指輪を外して棺の中に入れた[39]。
1983年10月12日、ハリウッド名声の歩道のコダック・シアターから2、3ヤードほどのところにカーペンターズの星型プレートが飾られた。多くのファンと並び、リチャード、ハロルド、アグネス・カーペンターが除幕式に出席した[44]。
カレンの死は拒食症だけでなく過食症に対してもメディアの注目を呼び寄せた。カレンの死によって有名人たちも自らの摂食障害を公表するようになったが、その中にはトレイシー・ゴールドやダイアナ妃といった人々がいた。医療センターや病院はこうした障害に悩む人々からの相談を受けることが多くなった。カレンの死が大きく報道されるまでは、一般大衆の間では拒食症や過食症についてあまり知られていなかったため、症状を正確に認識して対処することは困難だったのである。2003年12月、リチャードによってカレンと両親の遺骨がカリフォルニア州サイプレスのフォレスト・ローン記念公園から掘り起こされ、リチャードの自宅に近い場所となるカリフォルニア州ウェストレイク・ビレッジのピアース・ブラザーズ・ヴァリー・オークス記念公園に改葬された。
カーペンターズ以降
カレンの死後も、リチャードは未発表音源集やコンピレーション・アルバムなどデュオの作品のプロデュースを続けた。『メイド・イン・アメリカ』やそれ以前のアルバムでお蔵入りになっていた完成曲を収録したアルバム『ヴォイス・オブ・ザ・ハート』は1983年の終りにリリースされ[45]、チャート46位に達してゴールド認定を受けた。このアルバムからは2枚のシングルがカットされた。「遠い初恋」はカレンのソロ・アルバム用に録音された曲の2つ目のヴァージョンである(1979年にボビー・ヴィントンによりマイナー・ヒットとなっていた)。このシングルはアダルト・コンテンポラリー・チャートで第7位となったが、ポップ・チャートでは101位にとどまった。次のシングル「ユア・ベイビー」はACチャート12位となったが、「バブル・アンダー」はチャート入りしなかった。
リチャード・カーペンターは1984年5月19日にメアリ・ルドルフと結婚した。1987年8月17日には長女クリスティが、1989年7月25日には次女トレイシィが、1992年7月25日には三女ミンディ・カレン(叔母の名を継いだ)が生まれ、その後もコリンとテイラーが生まれた。
1984年、リチャードはデュオの最初のクリスマス・アルバム『クリスマス・ポートレイト』からのアウトテイクに新しい音源を加えた2枚目のクリスマス・アルバム『オールド・ファッションド・クリスマス』を、カーペンターズの「新作」として制作した。また1987年には、リチャード初のソロ・アルバム『タイム』をリリースした。このアルバムからは、ダスティ・スプリングフィールドをゲスト・ヴォーカルに迎えた「サムシング・イン・ユア・アイズ」がヒット・シングルとなった。
カーペンターズのイメージを守りレコードの版権管理をしていこうと務めるリチャードに対しては批判が集中した。彼らを題材として扱うドキュメンタリーやドラマが制作されることになると、リチャードがそれらすべてに対して実質的な監督権を主張したためである。1987年には、トッド・ヘインズの自主制作短編映画 "Superstar:The Karen Carpenter Story" (カレンが衰えて早すぎる死を迎えるまでを、実際の女優ではなくバービー人形を用いて描いている)の配給に介入した。この映画のカレンに対する描写は同情的なものだったが、カレンの不幸を浮き立たせるために家族に対しては悪印象を与えるような表現がとられており、リチャードはカーペンターズの曲が無許可で使用されていることを根拠に訴訟を起こし、映画の配給を差し止めさせた。1989年のテレビ映画『カーペンターズ・ストーリー』("The Karen Carpenter Story"、シンシア・ギブ主演)はリチャードの協力下に制作され、好意的な評価と高い視聴率を獲得した。この映画の放映後数週間はレコード屋からカーペンターズの在庫がなくなったほどである。
カレンのソロ・アルバム『遠い初恋』は1996年10月にリリースされた。CDにはA&Mが1980年にこのアルバムをお蔵入りにした経緯などを説明した、リチャードによるライナーノーツが付いている。ここに収録された楽曲は、ロック(ピーター・セテラをゲスト・ヴォーカルに迎えた「メイキング・ラヴ・イン・ジ・アフターヌーン」)からブルース(「ラスト・ワン・シンギン・ザ・ブルース」)まで、幅広いジャンルの音楽をカヴァーしている。なお、このアルバムのプロデューサーであるフィル・ラモーンはセテラがかつて所属していたバンド、シカゴの楽曲も数多く手がけている。カレンが1979年から1980年にかけて録音した未発表のソロ曲は他にも9曲ある。
1997年にリチャードは自身のピアニスト・編曲家・作曲家としての才能のすべてを注ぎ込んだアルバムを録音して発表したが、そのタイトルはまさに"Pianist Arranger Composer Conductor"というものであった(日本盤タイトルは『新たなる輝き:イエスタデイ・ワンス・モア』)。日本におけるカーペンターズの人気は非常に高く、カレンの死後も長く続いた。日本人でないアーティストのシングルが日本で大きく売れることは稀であるが、カーペンターズは例外である。カーペンターズのシングル3枚(「スーパースター」、「イエスタデイ・ワンス・モア」、両A面の「青春の輝き」/「トップ・オブ・ザ・ワールド」)がオリコンチャートのトップ10入りし、その他にも7曲がトップ40に入っている。1995年には日本市場向けにリチャードが編纂した『青春の輝き:ヴェリー・ベスト・オブ・カーペンターズ』("22 Hits of the Carpenters")がチャートトップを獲得し、2002年には出荷枚数300万枚を突破する。2003年には300万枚突破記念盤として再発、2005年には10周年記念盤として再々発された。 Wikipediaより
Carpenters - Top of the World & We've Only Just Begun
ダウニーにて
カーペンター家はニューヘイブンの家が売れず、経済的に苦しかった。そのため家族は最初にShoji Apartments(現在はThe Pinecrest Apts、12020 Downey Avenue, Downey, CA)に移り住んだ。最初はShojiアパートの22号室であったが、数か月後に向かいの大きな23号室に移り、約1年間過ごした。
1965年の11月、父であるハロルドはようやくダウニーのフィドラー・アベニューに家族向けの一軒家を手に入れて移り住んだ。(リチャードはストーリーブック・ハウスと呼んでいる)この家が建っていた場所はパラマウントとベルフラワーの境界に位置していたため、高速105号線の建設でちょうどこの場所だけが取り壊され、歴史的建造物であることを惜しむ声も上がった。カーペンター一家はこのフィドラー・アベニューの家に1971年まで住み続けた。
兄妹の生い立ち
リチャード・リン・カーペンターは1946年10月15日、妹カレン・アン・カーペンターは1950年3月2日生まれである。リチャードは父親の膨大なレコード・コレクションを聴き、ピアノの練習に熱心だった。[6]。一方カレンは親しみやすく外向的でスポーツを好んだが、兄と一緒に音楽を聴くことも多かった[6]。
1963年6月、両親のハロルドとアグネスは家族を連れてカリフォルニア州ロサンゼルス郊外のダウニーに移り住んだ。リチャードを音楽業界へ近づけることと、カレンと父がニュー・イングランドの厳しい冬を嫌ったための移住であった[7]。同年の秋からリチャードはダウニー高校へ通い、体育の代わりにバンドを選択科目とした。後にカレンも、これを参考にして選択を体育から音楽に変更した。音楽教師のブルース・ギフォードは、リチャードが「ラプソディ・イン・ブルー」を指示されて演奏するのを聴いて、リチャードのピアノ奏者としての才能を認めた[3]。
翌年度からリチャードはカリフォルニア州立大学ロングビーチ校へ通い、将来の作曲パートナーとなるジョン・ベティスと出会った。ベティスの協力のもとに、リチャードはやがて「トップ・オブ・ザ・ワールド」、「愛にさよならを」、「オンリー・イエスタデイ」といったヒット曲を生み出していく。またリチャード・カーペンター・トリオでベースやチューバを演奏することになるウェズリー・ジェイコブズや、1966年にクリスマス・ソングのスタンダード「メリー・クリスマス・ダーリン」を共作するフランク・プーラーらと知り合ったのもこの学校でのことである[8]。
カレンは、1964年にダウニー高校へ入学し、ドラム演奏の才能を見せはじめた[3]。カレンは、運動は好きだが体育の授業は嫌いだったと述べている。カレンは体育から逃れるため、カリフォルニア州立大学学生であったリチャードに、やはり同様に体育からマーチング・バンドを選択できるように、教師を紹介してもらい[9]、結果、ダウニー高校マーチング・バンドの一員となることを認められた。1963年、リチャードを教えていた教師のブルース・ギフォードは、カレンにグロッケンシュピールを担当させたが、カレンは気に入らなかった。あるインタビューでカレンは、「演奏に不便で運びにくく、バンドの演奏よりも常に4分の1音高い音を出すことなどに苛立っていた」と述べている[10]。
その後間もなくカレンは、友人でありバンド仲間のフランキー・チャベスからドラムの演奏を勧められ、チャベスのセットを借りてドラムを教わった。「基礎から始めて2人で何時間も練習したのだろう」とリチャードは語っている。1964年に両親からラディックのドラムセットを買って貰ったころには、カレンの腕前はプロ並みに上達しており、リチャードが後年のドキュメンタリー『リメンバー・ザ・カーペンターズ』("Close to You:Remembering the Carpenters")で語っているところによれば「エキゾティックな拍子記号の列を叩き出せるほどになっていた」[11][12]という。
初期の活動
1965年まで1年間カレンはドラムの練習に励み、リチャードは教師フランク・プーラーの指導の下でピアノを練習した。兄妹はジャズ・トリオの結成を真剣に考えるようになり、親しくなったウェス・ジェイコブズとバンドを結成[8]。ドラムはカレン、ピアノはリチャード、ベース/チューバはジェイコブズという編成のジャズ・トリオで、「リチャード・カーペンター・トリオ」と名乗った。1966年、トリオはハリウッド・ボウルで毎年行われていた "Battle of the Bands" (いわゆる対バン形式のコンテスト)に出場し、「イパネマの娘」のインストゥルメンタル・ヴァージョンや自作曲「アイス・ティー」を演奏した。1966年6月24日、トリオはこの大会で優勝し、RCAレコードとの契約を勝ち取った[3]。そこで彼らはビートルズの「エヴリー・リトル・シング」やフランク・シナトラの「夜のストレンジャー」("Strangers in the Night")などといった曲を録音した。しかし、RCAとの契約はすぐに打ち切られる[13]。
1966年、ロサンゼルスのベース奏者ジョー・オズボーンが所有していたガレージ・スタジオで深夜にセッションが行われることとなり、そこでオーディションを受けるトランペット奏者の伴奏を務めるために参加することとなったリチャードに、カレンも同行した[12][14]。この時、ためしに歌ってみるようオズボーンから頼まれたカレンの声のすばらしさが認められ、1966年5月13日、カレンはオズボーンが立ち上げたばかりのレーベル、マジック・ランプ・レーベルとソロ・アーティストとしての短期レコード契約を結ぶこととなった。このレーベルからはリチャードが作曲した「ルッキング・フォー・ラヴ」("Looking for Love")と「アイル・ビー・ユアズ」("I'll Be Yours")を収録したシングルが制作されたが、レーベル自体がその後すぐに消滅。しかしオズボーンは、カレンとリチャードがA&Mレコードからのオファーを受けることとなる1969年まで、2人にデモ・テープの録音を続けさせた[15]。
1967年、リチャードとカレンはカリフォルニア州立大学ロングビーチ校の学生ミュージシャン4人と共に、「ザ・サマーチャイムズ」という名のセクステット(6重奏団)を結成した。やがて「スペクトラ」と改名し、最終的には「スペクトラム」の名に落ち着いた[12][16]。グループはジョリー・ナイト・ステーキ・ハウスやウィスキー・ア・ゴーゴーなどで頻繁に演奏するようになった[15][17]。スペクトラムはレコード会社と契約を交わせなかったが、同じバンドのメンバーであると同時に、のち1983年のカレンの死まで多くの楽曲の共作者となるジョン・ベティスと、リチャードは親交を深めた。
1968年、スペクトラム解散。リチャード・カーペンター・トリオのウェス・ジェイコブズは、ベースとチューバを演奏していたが、デトロイト交響楽団へ加入するためグループを去った(1970年首席チューバ奏者となった)[18]。リチャードとカレンは1968年の中ごろにテレビ番組"Your All American College Show"から出演依頼を受けた。全国の大学からさまざまなグループを集めてコンテストに参加させるオーディション番組であった。兄妹はマーサ&ザ・ヴァンデラスの曲 "Dancing in the Street" で参加することとしたが、バンドを去ったジェイコブズの代わりとなるベース奏者が必要となり、オーディションを行った。結局、そのテレビ出演だけの臨時参加という形でビル・シショフが選ばれた[3]。一時的なメンバーを加えたリチャード・カーペンター・トリオは1969年6月22日にテレビデビューを飾った。この演奏が、リチャードとカレンにとって初めてのテレビ出演でもあった。この出演を最後にリチャード・カーペンター・トリオは最終的に解散し、レコード会社からのオファーを待つこととなる。
当時はジミ・ヘンドリックスやビートルズ、ジャニス・ジョプリン、ローリング・ストーンズなどロックグループが主流だった。しかし、リチャードとカレンは自分たちの路線を貫き、二人は友人たちの手を借りながらさまざまなレコード・レーベルにデモ・テープを送り続けた。それがA&Mレコードの共同所有者でありトランペット奏者・ヴォーカリストでもあるハーブ・アルパートの関心を惹いた。このアルパートがリチャードとカレンを世に送り出すことになる。
カーペンターズ
1969年4月22日、リチャードとカレンは「カーペンターズ」名義でA&Mレコードとの契約を結んだ。当時の州法で19歳のカレンは未成年者だったため、両親も署名した[3][19]。兄妹はあえて定冠詞 "The" の付かない"Carpenters"を契約上の名義とすることに決めた("The Carpenters" は「カーペンター兄妹」ないし「カーペンター家」を意味するが、"Carpenters" だけでは「大工たち」の意味になる)。その理由についてリチャードは、2004年に発売された "Gold:35th Anniversary Edition" のライナーノーツにおいて、バッファロー・スプリングフィールドやジェファーソン・エアプレインのように、「ザ・〜ズ」ではないバンド名のほうがかっこいいと思ったからだと述べている[注 1]。
A&Mレコードとの契約において、リチャードとカレンはスタジオ内での自由を与えられた[12]。『オファリング』と題されて1969年にリリースされた彼らの最初のアルバムには、リチャードがスペクトラム時代に作曲ないし共作した楽曲もいくつか収録されている[20]。このアルバムにおける人気曲は、ビートルズのヒット曲をバラード風にアレンジした「涙の乗車券」で、ビルボード・ホット100で最高54位、アダルト・コンテンポラリー・チャートでトップ20位入りするなど、まずまずのヒットとなった[1][21]。この曲の成功を受けて、『オファリング』は1970年に『涙の乗車券』へと題名を変えて再発された。
アルバム『涙の乗車券』のチャート・アクションは今一つ振るわなかったが、リチャードとカレンはバート・バカラック/ハル・デヴィッド作の「close to you」でついに成功を手にする。このシングルは1970年にリリースされて初登場56位となり[22]、1970年7月22日にはチャート1位に昇りつめ、4週にわたって首位の座を守った[12]。また1970年ビルボード誌年間ランキングでは第2位となっている。ベストセラーとなったアルバム『close to you』の収録曲からはこの曲と「愛のプレリュード」がRIAAによってゴールドディスクに認定され、同アルバムは『ローリング・ストーン』誌による『偉大なアルバム500選』("500 Greatest Albums of All Time")の175位にも選ばれている[23]。その年の最優秀新人部門をはじめとする2つのグラミー賞も受賞した。
「Close to You」が1位となった直後に、カーペンターズがカヴァーした「愛のプレリュード」(ポール・ウィリアムス/ロジャー・ニコルス作)がビルボード・ホット100で第2位となり、アダルト・コンテンポラリーチャートでは首位を7週間保持した。リチャード自身もこの曲はグループの「代表曲」だと認めている[1][12]。この曲はもともとウィリアムズとニコルズがクロッカー・ナショナル銀行のテレビCM曲として前年に作曲したものだが、リチャードはテレビで聴いたときにその曲のヒット性にいち早く気づいたのである。「愛のプレリュード」はウィリアムズとニコルズにとって初のヒット・シングルとなった。
2人はその年の締めくくりとして、クリスマス・ソング「メリー・クリスマス・ダーリン」をリリースした。この曲は、カリフォルニア州立大学時代に2人の参加していた合唱団の監督を務めていたフランク・プーラーとリチャードが共作した作品で、1970年のビルボードのホリデイ・チャートで上位にランクインして、翌年以降も同チャートにたびたび登場した。
一連のヒット・シングルやアルバムによって、カーペンターズは1970年代を通じてヒット・チャートの常連となった。1971年のヒット曲「ふたりの誓い」は、元はサイ・ハワード監督による1970年の映画『ふたりの誓い』の結婚シーンのためにレコーディングされたものである[24]。映画館でこの曲を聴いて気に入ったリチャードは、その後間もない1970年秋にこの曲を録音し、カーペンターズにとって3枚目のゴールド・シングルとなった[25]。
続いて送り出された「雨の日と月曜日は」はビルボード・ホット100の第2位を記録し[1]、ポール・ウィリアムズとロジャー・ニコルスにとって2曲目のヒット・シングルとなった。カーペンターズの評伝を著した作家コールマンは、「雨の日と月曜日は」をおそらく最もポピュラーなカーペンターズの楽曲であろうと評している。さらにこの曲はカーペンターズ第4のゴールド・シングルとなったが、1位獲得を阻んだのはキャロル・キングの「イッツ・トゥー・レイト」("It's Too Late")だった[26]。
レオン・ラッセル/ボニー・ブラムレット作曲のシングル「スーパースター」はカーペンターズの次の代表曲となり、ここで聴かれる痛切で心に残るカレンの歌声は高い評価を受けている。この曲もビルボード・ホット100で第2位となった[1]。1971年には彼ら自身の名をタイトルとしたアルバム『カーペンターズ』(日本盤タイトルは『ふたりの誓い』→『スーパースター』→『カーペンターズ』と改題された)がリリースされた。この作品は彼らにとって最も売れたアルバムの1つであり、RIAAのプラチナムを4度にわたって獲得(売上400万枚以上)している[27]。この作品でカーペンターズはグラミー賞(Best Pop Performance by a Duo or Group with Vocal)を受賞し、3部門でノミネートされた[28]。
1972年にリチャードはエレキギターによるソロを導入したバラードを考案した。後にこうした形態の曲をハードロックやヘヴィメタルのバンドが継承して Power ballad と呼ばれる1ジャンルにまでなったことから、リチャードがこのジャンルの先駆者とみなされることもある。この曲「愛にさよならを」はリチャードとベティスによって作曲されたもので、カーペンターズが1972年に出した2枚目のシングルとして最高7位を記録した[1]。「愛にさよならを」はビング・クロスビー主演の映画 "Rhythm on the River" に着想を得たものである[29]。この映画は1940年に制作され、作中にはベイジル・ラスボーンが演じる作曲家が登場する。この作曲家は歴史上最も美しい歌 "Goodbye to Love" の作者として有名という設定である。リチャードによれば、この曲は映画の中に言及があるだけで演奏されてはいなかったが、同名の曲を自分で書こうと思いつき、1972年にベティスと共作するまでそのアイディアを温めていたという[12][29]。2人はリードギタリストとしてトニー・ペルーソを招き、A&Mのスタッフもペルーソの大胆なソロに満足した。これを機にペルーソは1983年までカーペンターズの伴奏者を務めることとなった。しかし、ファンの中にはカーペンターズのレコードにエレキギターのソロが入ることに不満を抱く者も少なくなく、嫌がらせの手紙を送りつける者さえいたという[12][30]。
1973年リリースのアルバム『ナウ・アンド・ゼン』のタイトルは2人の母アグネス・カーペンターの案による。この作品には『セサミ・ストリート』で挿入歌として使用された楽曲「シング」や、昔のラジオを懐かしむ懐古的な歌詞の「イエスタデイ・ワンス・モア」などが収録されている。日本とイギリスでのカーペンターズ最大のヒット曲である「イエスタデイ・ワンス・モア」はアルバムのB面1曲目に収録され、その後に60年代前半にヒットした例えばスキータ・デイヴィスの「この世の果てまで」などのオールディーズのメドレーが続き、聴き物となっている。
カーペンターズにとって初となるベスト・アルバムは "The Singles:1969-1973" と題され、アメリカとイギリスでアルバムチャートのトップに立っている。特にイギリスにおいては、1974年7月13日にエルトン・ジョンの『カリブ』にトップを奪われるまでトータル17週も首位に立ち[31]、70年代に最も売れたアルバムのひとつとなっている。また、このアルバムはアメリカでも2008年までに700万枚以上を売り上げ[27]、7倍のマルチ・プラチナ・ディスクを授与されている[27]。
このベスト・アルバム用に新たに作り直され、アルバムの先行シングルとしてリリースされたのが「トップ・オブ・ザ・ワールド」である。1972年リリースのアルバム『ア・ソング・フォー・ユー』に収められていたこの曲のアルバム・ヴァージョンを聴いたカントリー・シンガーのリン・アンダーソンがこの曲をカヴァーして1973年にリリースすると、リチャードとカレンも自分たちもシングルとしてリリースするべきかどうかについて議論した。A&Mの仕事仲間であったギル・フリーセンは、アルバム『ア・ソング・フォー・ユー』からはすでに4枚ものシングル(「ハーティング・イーチ・アザー」、「愛にさよならを」、「小さな愛の願い」、「愛は夢の中に」)をカットしていることを理由に反対したが[32]、それにもかかわらず、一般からの需要は高いという判断により「トップ・オブ・ザ・ワールド」を1973年9月にシングルカットされ、同年12月にビルボードHOT100において2週連続で1位となり、カーペンターズにとって2枚目の全米1位シングルとなった。[33]
1970年代後半
カーペンターズは1974年には新しいアルバムを発表しなかった。リチャードはこれについて「単に時間がなかったから。アルバムを作る気分にもなれなかったし」と語っている[34]。その代わりに、2人はポール・ウィリアムズ/ロジャー・ニコルズ作曲のシングル「愛は夢の中に」をリリースしている。これはもともと1972年のアルバム『ア・ソング・フォー・ユー』に収録されていたものだが、カーペンターズはそのLPをリリースした2年後になって、この曲をシングル・カットすることを決定した[35]。1974年3月、そのシングル・ヴァージョンはビルボード・トップ100チャートの11位に達し、アルバム『ア・ソング・フォー・ユー』からの5番目のトップ20ヒットとなった。
一方、同1974年には『ナウ・アンド・ゼン』に収録されたハンク・ウィリアムズの「ジャンバラヤ」をアップテンポにリメイクした。この曲はアメリカでシングルとしてリリースされたほか、日本のチャートでも30位以内にランクインし、イギリスをはじめとする他の多くの国でもヒットした。オランダでは、カーペンターズにとって最大のヒット曲となったほどである[36]。また1974年の暮れには、ジャズ調の編曲を施したクリスマス・ソング「サンタが街にやってくる」をシングルとしてリリースしている。
1975年はまだ彼らにとって多作の年であった。マーヴェレッツが1961年にチャート1位を獲得したヒット曲で、モータウン・サウンドのクラシックであった「プリーズ・ミスター・ポストマン」をカヴァーしたシングルがヒット。これは1974年にリリースしたものだが、75年の1月にビルボード・トップ100で1位を獲得し、彼らにとっての3度目の(そして最後の)首位獲得作品となった。このシングルはまた、カレンとリチャードにとっての12番目のアメリカでのミリオンセラーにもなった。日本ではこのシングルが最高の売上枚数を記録している[37]。
「プリーズ・ミスター・ポストマン」に続き、春にはリチャードとジョン・ベティスの共作「オンリー・イエスタデイ」がビルボードで4位まで上昇し、これは彼らにとって最後のアメリカでのトップ10ヒットとなった[38]。リチャードとベティスはこの曲がヒット・シングルになるとは思っていなかったので、ロジャー・ヤングとの賭けでトップ5入りしない方に賭けており、2人はヤングに1000ドル支払うはめになったという[39]。
1975年の上半期に成功を収めたこの2曲はいずれも1975年のアルバム『緑の地平線〜ホライゾン』に収められている。このアルバムはほかにもイーグルスの「デスペラード」とニール・セダカの「ソリテアー」のカヴァーを収録しており、これらも同じ年に中ヒットを記録した。このアルバムのジャケットは、日本人デザイナーの長岡秀星の代表作のひとつである。ただし、以降彼らのレコード・セールスは次第に下降線を辿り始めた。『緑の地平線〜ホライゾン』はプラチナム・アルバムに認定されたが、その後(アルバムからの2枚目のシングルがチャートから消えて以降)カーペンターズにとっては初めてマルチ・プラチナムに達することのなかったアルバムとなった。
1976年6月11日に発売された次のアルバム『見つめあう恋』も、ゴールド・ディスクには認定されたものの、彼らにとってはファースト・アルバム『涙の乗車券』以来の7年間で初めてプラチナ獲得に至らなかったアルバムである。それでも1976年のシングル・リリースは成功を収めていたが、当時のヒット・ラジオ番組は音楽的スタイルを変化させており、ついにはカーペンターズのような「ソフト」なグループの多くを苦しめるようになった。カーペンターズのその年最大のポップ・シングルはハーマンズ・ハーミッツのカヴァー「見つめあう恋」で、最高12位であった。カレンの最も好きな曲といわれる「青春の輝き」はビルボード・ホット100では25位にとどまったが、アダルト・コンテンポラリー・チャートでは「見つめあう恋」に続き14枚目となる1位を獲得した。これは同チャートの歴史上他に類を見ない記録となった。
彼らの功績の1つとして数えられることは少ないが、カーペンターズはアメリカでは最も早く自分たちのレコードの宣伝のためにミュージック・ビデオを制作したグループの1つである。1975年の初めに、彼らはディズニーランドで「プリーズ・ミスター・ポストマン」の演奏を撮影しているほか、「オンリー・イエスタデイ」をハンティントン・ガーデンで収録しているが、ここでのカレンは健康で調子良さそうに見える。しかし、1年後に撮影した「見つめあう恋」のビデオに出演した時には目に見えて違いが現れるようになっていた。
1977年から1979年にかけてディスコ・ブームの真只中であり、カーペンターズやジョン・デンヴァーら大人向けの「イージー・リスニング」のアーティストは、ラジオなどで放送される機会がやや減りつつあった。1977年にリリースされたカーペンターズの実験的なアルバム『パッセージ』は、他の音楽ジャンルへ挑むことによって、より多くの層へ訴えかけようとする試みであったが、ラテン音楽(「一人にさせて」)、カリプソ(「恋の強がり」)、ポップ・ソング(「想い出にさよなら」、「あの日、あの時」)という不釣合いな混ぜ合わせに、「ふたりのラヴ・ソング」(アダルト・コンテンポラリー・チャート4位)、「星空に愛を(コーリング・オキュパンツ)」といったヒット曲を抱き合わせたというものである。最も有名な曲、ミュージカル『エビータ』から取られた「月影のバルコニー〜泣かないでアージェンティーナ」やクラトゥの「星空に愛を」などのカヴァーはいずれも合唱とオーケストラによる伴奏が加えられた。シングル「星空に愛を」はイギリスではヒットしたが、アメリカのポップ・チャートでは32位止まりとなり、カーペンターズとしては初めてゴールド認定となる50万枚の売り上げに達することのなかったアルバムとなった[40]。
リチャードは『パッセージ』収録曲の「想い出にさよなら」は、きっとヒットすると感じていたため、A&Mにシングルでのリリースを決断させた。この曲はアン・マレーのシングルとして発売され、1979年のアダルト・コンテンポラリーおよびカントリー・チャートの両方で1位を獲得し、リチャードの感性の正しさを証明した。カーペンターズによる「ふたりのラヴ・ソング」と「星空に愛を」のミュージック・ビデオがDVD"Gold:Greatest Hits"で観ることができる。
国内チャートでの成績はやや振るわなくなってきたとはいえ、カーペンターズはまだ十分な人気を維持していた。1978年の初めには、アップテンポでフィドルを加味した「スウィート・スマイル」がカントリー・チャートで意外にもトップ10入りを果たした(ビルボード・ポップ・チャートではトップ40に若干及ばなかったが、アダルト・コンテンポラリーで7位、カントリー・チャートで8位を獲得した)。この曲は後年カントリーやポップのスターとなるジュース・ニュートンが作曲したものである。イギリスでは2作目のベスト・アルバム"The Singles:1974-1978"が発売された。一方アメリカではカーペンターズ初のクリスマス・アルバム『クリスマス・ポートレイト』が発売されてその季節の人気作品となり、勢いの衰えはじめたこの時期にあっては意外な売れ行きを見せ、カレンとリチャードに再びプラチナムをもたらした。
1980年代初頭
1979年、リチャードはカンザス州のリハビリ施設で薬物依存症からの回復を試みる。その間にカレンはニューヨークに渡って、プロデューサーにフィル・ラモーンを迎えた初のソロ・アルバムの制作を決意する。彼女はこのアルバムのためにより大人向けでディスコ調の作品を選び、これまでのイメージを払拭しようと努めた。だが、1980年の初頭に完成したソロ作品に対し、リチャードやA&Mは難色を示した。カレンにとっては不幸なことに、このアルバムは発表しないものとする決定が下され、この作品の制作費として印税から50万ドル以上の負債を請求されたのである。この決定に怒りを覚えつつも、ある面では慣れぬ仕事から解放されたカレンは、依存症から立ち直った兄と新しいアルバムの制作にとりかかる。お蔵入りになったカレンのソロ・アルバムは1996年10月に『遠い初恋』としてリリースされるまで未発表だったが、録音された楽曲のうち4つは1989年のカーペンターズのアルバム『愛の軌跡〜ラヴラインズ』の中で日の目を見た。その際に「イフ・アイ・ハド・ユー」はシングルとしてリリースされ、アダルト・コンテンポラリー・チャートで20位以内にランクインした。
カーペンターズは1980年に『Music』と題されたテレビの特番に出演し、エラ・フィッツジェラルドやジョン・デヴィッドソンをはじめとする著名なゲストと共演した。これはカレンがトム・バリスと結婚したのと同じ年に撮影されたもので、この時期のカレンは比較的健康な体重を取り戻していた。[12]。
1981年6月16日にリリースされたカーペンターズのデュオとしての次なるLP『メイド・イン・アメリカ』は、商業的には失敗に終わった。この作品はアメリカでは、カレンが亡くなる1983年初頭までは20万枚ほどしか売れていなかった。しかしながら、アルバムからシングル・カットされたロマンティックな「タッチ・ミー」はHot100で16位まで上昇し、全米ポップ・チャートにおける彼らの最後のトップ20ヒットシングルとなった。この曲はビルボードのアダルト・コンテンポラリー・チャートでは彼らにとって15番目の首位記録作品でもある。
カレンのトーマス・ジェイムズ・バリスとの結婚や、彼女が患っていた拒食症などの個人的な問題は、グループの復帰に暗い影を落とした。瞬く間に恋に落ちたあと、カレンは不動産業者のバリスとの結婚式をビバリーヒルズ・ホテルのクリスタル・ルームで盛大に行った。1980年の8月31日に挙げられたこのセレモニーの中で、カレンは翌年に「タッチ・ミー」のカップリングとしてリリースされる、リチャードとベティスが書き下ろした楽曲「ウエディング・ソング」を披露している[41]。
だが、結婚してから1年ほどの間に、彼女の容姿は変わり果てていった。『メイド・イン・アメリカ』の販売促進用に制作されたビデオで窺えるその姿は、もはや彼女が重病人であったことを裏付けるのに十分な証拠といえるものであった。カレンとバリスの結婚生活は惨憺たるものであり、彼らは1981年の終わりには別居する。1982年、カレンは障害の診療を受けるためニューヨークの著名な心理セラピスト、スティーブン・レベンクロンを訪ね、この年の11月には仕事に復帰して離婚手続きを完了するためにカリフォルニアへ戻った。カレンの甲状腺は通常のものであったが、新陳代謝を加速するために甲状腺の薬を通常の10倍服用していることが分かった。これに加えて大量の下剤(日に90錠から100錠)を服用していたことが、彼女の心臓を弱める原因となった。
カレンの突然の死
ニューヨークの病院での2か月以上にわたる治療を経て、カレンは30ポンド(13.6キログラム)以上も体重を戻したが、急激な体重の増加は、長年の無理なダイエットですでに弱っていた彼女の心臓に、さらなる負担をかけてしまった。1983年の2月4日の朝、カレンはダウニーの両親の家で心肺停止状態に陥ってダウニー・コミュニティ病院に運ばれるが[42]、それから20分後に死亡が確認された。彼女はその日、離婚届へ署名するつもりであったという。
検死によると、カレンの死因は神経性無食欲症に起因するエメチンの心毒性であった。解剖学的な結論としては、心臓麻痺が第1の原因で、拒食症は第2の原因であった。第3に挙げられるのが悪液質で、これは負担や衰弱としては非常に軽いもので、慢性的な疾患と関連した一般的な体の衰えというべきものであった。エメチンの心毒性が死因であったことは、カレンが当時は簡単に入手できた薬である吐剤(誤って毒物を摂取してしまった人が即座に嘔吐できるようにするためのもの)を悪用していた可能性を示唆したが、明確な証拠はない[43]。
彼女の告別式は1983年2月8日火曜日にダウニーの統一メソジスト教会で執り行われた。カレンは白い開いた棺にピンクのドレスを着せて横たえられ、およそ1,000人の会葬者が最後の別れを告げた。会葬者の中には、ドロシー・ハミル、オリビア・ニュートン=ジョン、ペトゥラ・クラーク、クリスティナ・フェラー、ディオンヌ・ワーウィックといった彼女の友人たちがいた。別居中であったカレンの夫も葬儀に出席し、結婚指輪を外して棺の中に入れた[39]。
1983年10月12日、ハリウッド名声の歩道のコダック・シアターから2、3ヤードほどのところにカーペンターズの星型プレートが飾られた。多くのファンと並び、リチャード、ハロルド、アグネス・カーペンターが除幕式に出席した[44]。
カレンの死は拒食症だけでなく過食症に対してもメディアの注目を呼び寄せた。カレンの死によって有名人たちも自らの摂食障害を公表するようになったが、その中にはトレイシー・ゴールドやダイアナ妃といった人々がいた。医療センターや病院はこうした障害に悩む人々からの相談を受けることが多くなった。カレンの死が大きく報道されるまでは、一般大衆の間では拒食症や過食症についてあまり知られていなかったため、症状を正確に認識して対処することは困難だったのである。2003年12月、リチャードによってカレンと両親の遺骨がカリフォルニア州サイプレスのフォレスト・ローン記念公園から掘り起こされ、リチャードの自宅に近い場所となるカリフォルニア州ウェストレイク・ビレッジのピアース・ブラザーズ・ヴァリー・オークス記念公園に改葬された。
カーペンターズ以降
カレンの死後も、リチャードは未発表音源集やコンピレーション・アルバムなどデュオの作品のプロデュースを続けた。『メイド・イン・アメリカ』やそれ以前のアルバムでお蔵入りになっていた完成曲を収録したアルバム『ヴォイス・オブ・ザ・ハート』は1983年の終りにリリースされ[45]、チャート46位に達してゴールド認定を受けた。このアルバムからは2枚のシングルがカットされた。「遠い初恋」はカレンのソロ・アルバム用に録音された曲の2つ目のヴァージョンである(1979年にボビー・ヴィントンによりマイナー・ヒットとなっていた)。このシングルはアダルト・コンテンポラリー・チャートで第7位となったが、ポップ・チャートでは101位にとどまった。次のシングル「ユア・ベイビー」はACチャート12位となったが、「バブル・アンダー」はチャート入りしなかった。
リチャード・カーペンターは1984年5月19日にメアリ・ルドルフと結婚した。1987年8月17日には長女クリスティが、1989年7月25日には次女トレイシィが、1992年7月25日には三女ミンディ・カレン(叔母の名を継いだ)が生まれ、その後もコリンとテイラーが生まれた。
1984年、リチャードはデュオの最初のクリスマス・アルバム『クリスマス・ポートレイト』からのアウトテイクに新しい音源を加えた2枚目のクリスマス・アルバム『オールド・ファッションド・クリスマス』を、カーペンターズの「新作」として制作した。また1987年には、リチャード初のソロ・アルバム『タイム』をリリースした。このアルバムからは、ダスティ・スプリングフィールドをゲスト・ヴォーカルに迎えた「サムシング・イン・ユア・アイズ」がヒット・シングルとなった。
カーペンターズのイメージを守りレコードの版権管理をしていこうと務めるリチャードに対しては批判が集中した。彼らを題材として扱うドキュメンタリーやドラマが制作されることになると、リチャードがそれらすべてに対して実質的な監督権を主張したためである。1987年には、トッド・ヘインズの自主制作短編映画 "Superstar:The Karen Carpenter Story" (カレンが衰えて早すぎる死を迎えるまでを、実際の女優ではなくバービー人形を用いて描いている)の配給に介入した。この映画のカレンに対する描写は同情的なものだったが、カレンの不幸を浮き立たせるために家族に対しては悪印象を与えるような表現がとられており、リチャードはカーペンターズの曲が無許可で使用されていることを根拠に訴訟を起こし、映画の配給を差し止めさせた。1989年のテレビ映画『カーペンターズ・ストーリー』("The Karen Carpenter Story"、シンシア・ギブ主演)はリチャードの協力下に制作され、好意的な評価と高い視聴率を獲得した。この映画の放映後数週間はレコード屋からカーペンターズの在庫がなくなったほどである。
カレンのソロ・アルバム『遠い初恋』は1996年10月にリリースされた。CDにはA&Mが1980年にこのアルバムをお蔵入りにした経緯などを説明した、リチャードによるライナーノーツが付いている。ここに収録された楽曲は、ロック(ピーター・セテラをゲスト・ヴォーカルに迎えた「メイキング・ラヴ・イン・ジ・アフターヌーン」)からブルース(「ラスト・ワン・シンギン・ザ・ブルース」)まで、幅広いジャンルの音楽をカヴァーしている。なお、このアルバムのプロデューサーであるフィル・ラモーンはセテラがかつて所属していたバンド、シカゴの楽曲も数多く手がけている。カレンが1979年から1980年にかけて録音した未発表のソロ曲は他にも9曲ある。
1997年にリチャードは自身のピアニスト・編曲家・作曲家としての才能のすべてを注ぎ込んだアルバムを録音して発表したが、そのタイトルはまさに"Pianist Arranger Composer Conductor"というものであった(日本盤タイトルは『新たなる輝き:イエスタデイ・ワンス・モア』)。日本におけるカーペンターズの人気は非常に高く、カレンの死後も長く続いた。日本人でないアーティストのシングルが日本で大きく売れることは稀であるが、カーペンターズは例外である。カーペンターズのシングル3枚(「スーパースター」、「イエスタデイ・ワンス・モア」、両A面の「青春の輝き」/「トップ・オブ・ザ・ワールド」)がオリコンチャートのトップ10入りし、その他にも7曲がトップ40に入っている。1995年には日本市場向けにリチャードが編纂した『青春の輝き:ヴェリー・ベスト・オブ・カーペンターズ』("22 Hits of the Carpenters")がチャートトップを獲得し、2002年には出荷枚数300万枚を突破する。2003年には300万枚突破記念盤として再発、2005年には10周年記念盤として再々発された。 Wikipediaより