橡の木の下で

俳句と共に

「庭の鳥」平成31年『橡』3月号より

2019-02-27 06:41:07 | 俳句とエッセイ

  庭の鳥   亜紀子

 

 去年の秋からこのかた近隣の軒先のピラカンサが何処もたわわである。びっしりと赤い実が枝も垂れるほど。眩しいくらい日に映えている。温暖化で生りが良いのだろうか。それよりも、毎冬うるさいほど騒ぐ筈の鵯や、歌うたいの目白たちの姿が見えないのだ。

 

南天の真紅撒きしは鵯か吾子か  星眠

 

人の住む庭のものを食べに来る野鳥が少ないゆえの豊作かもしれない。と思っていたらHさんの青啄木鳥集の投句の添え書きに「今年は我家の庭に来る鳥が少なくて淋しい思いです。多分山の方に餌がまだあるかららしいです。野鳥の会の方にお聞きしました。」とあった。Hさんは草木や花に詳しく吟行の折などにいろいろ教えていただいた。庭にはたくさんの植物を育てていると聞いている。その庭にも鳥が居ないのであれば、こまごま建て込んだ下町の庭木にやって来ないのは当然かもしれない。

 さもありなんと納得していると、何度か寒波に見舞われた。俄に冷え込んだ朝には、目白の群れが飛び込んで来る。鵯の叫び声が聞える。そうしてお隣の垣からはみ出したピラカンサの枝の下に赤い実がこぼれていた。現金な鳥たちだなあと眺めていたが、まてよと立ち止る。山や森にある餌は寒くなったからといって突如無くなるわけではないだろう。気温の下がった日にだけ庭に来る鳥というのは、へいぜい人間の近くに塒を持っていて、寒い日は体力温存、エネルギー保持のために近場で食事を済ませているということかもしれない。そういえば、穏やかだったこの正月四日のまだき、眼下の木の実には見向きもせずどこかへ飛んで行く鵯を見上げて、さて鳥たちも出勤、仕事初めかと思ったことだ。庭の実を糧にするというのは、野生の者にはよくよくのことなのだろうか。実地に観察している人なら分るだろう。私も野鳥の専門家に聞いてみたい。

 世の中が始動して、正月五日、金沢の黒田更さんの訃報に絶句。十二月初めにちょっとメールの遣り取りをした。更さんのメールには庭の満天星の真っ赤な紅葉の写真が貼付され、こんな色の気持ちで年越ししたいと添えられていた。年賀状も頂戴した。そこには更さん自身でなく、関西俳句会の折のスナップ、くちゃくちゃの笑顔の私の写真が印刷されていた。コメントに、昨年撮った写真で一番好きな一枚と書かれている。私は自分に手放しの笑顔があったことに改めて気付かせてもらい、非常に有り難かった。聞けば、他の人たちもそれぞれその人の写真入りの賀状が届いているということだった。ご自身のことは何も構わず、ただ黙って皆にカメラを向けられ、皆の気持ちを写真に収めていたのだろうか。穏やかに続いていた道が前触れもなく不意に寸断されたような、いや、もっと急な、なんとも収拾の着かない思いが滞る。

 いつもはにかんでいるような、控えめな、それでいて人のために労を惜しまなかった更さん。享年八十一歳。この世の大先輩を更さんと馴れ馴れしく呼ぶのは失礼かもしれないが、そうさせていただける安心感を与えられていたことに気付く。その後、各地の方が心底更さんを惜しみ、そのご縁を語られる。思いがけぬ人繋がりの広さにも驚いている。

 

名乗りつつ天地俯仰の寒鴉  星眠

 

 鴉は鵯目白のように庭まで降りて来ることはないが、いつでも付かず離れず身近に居る。何故か更さんの訃の後、常にも増して黒々として静かだった。一昨年の町野先生のお別れの日にも鴉は喪に服していた。鴉には特別な洞察力があるのか。人の生活の傍らにあって、人の悲しみや喜びの折節に添いながら、古より神性や魔性を帯びるようになったのではなどと思い巡らしてみる。誰かにこれも聞いてみたい。