俳句極意 亜紀子
自分の俳句の世界が狭いのが悩みである。この春はアヒル(カルガモ)俳句ばかりだったような。
五月一日たまたまいつもより早い時間に徳川園へ出かけた。入り口で係員さんに今日は早いですねと声をかけられ、続けてカルガモが孵ったことを教えてくれる。今年も十二羽ですよと。それから毎日通い、毎日一句。ところが一週間ほど経つとカモの赤ん坊はたった一羽になっていた。厳しい自然の掟。去年も同じように通い、同じような句を詠んでいたなあ。
園ではカモの生活を優先に一部を通行禁止にする。散策の客は池に張り出した木橋に横一列に並び、向こう岸で何やら餌を漁る親子にカメラを向ける。一群が去れば、また次の一群。水面には白にピンクの睡蓮がほつほつ。その上をヤンマらしい青緑色のトンボが旋回している。サナエトンボか。岸になだれる若楓の奥に楠の木があり、その陰から時折アオスジアゲハが舞い出てくる。
皆が蒲鉾板のようなスマホのカメラをかざしている中に、立派な望遠の青年が一人。その若者は一群とやや距離をおいているばかりか、アサッテの方向にレンズを向けている。何を撮っているのか盗み見ると、どうやら彼の被写体はトンボのようだ。そろりと近寄って話しかけてみる。迷惑だったらさっと退散しよう。
トンボですかと声をかけると案外にもすらっと応じてくれた。自分はトンボ専門に追っているのだが、今日は人が多くて撮影は難しいとのこと。トンボは人とカモを嫌っていると言う。トンボは力強く自由に飛び回り人など御構いなしに見えるのだが、観客が多くなるとスッと旋回してその場を離れるのが確かに見て取れた。カモを嫌うのはカモの餌にされてしまうからとのこと。カルガモがトンボも食べるとは知らなかった。毎日見ているのに。
それにしてもあんなに素早い被写体を撮るのは大変でしょう、連写してるのですかと聞くと、はい、連写は当然ですと。何を言ってるんだこのおばさんはというような響きにちょっと恥ずかしくなる。トンボを追うというより、レンズの中に入ってもらうという感じだろうか。
あれはサナエトンボですかと尋ねると、今度は丁寧に、あれはクロスジギンヤンマです。今いるのはほとんどクロスジギンヤンマですね。ここにはサナエトンボはいませんというか、名古屋市内ではほぼサナエは見られないですと。
クロスジギンヤンマは二匹が取っ替え引っ替えに飛んでくる。縄張りを張っているのだそう。目を凝らすと睡蓮の葉の上にはイトトンボが止まったり、舞ったり。クロイトトンボだと教えてくれる。ヤンマもイトトンボも一つ名前に一括りしているが、見る人が見ればそれぞれの種は歴然。そういう目を持ちたいものである。
太陽は傾いてきた。カメラマンはそろそろ引揚げようかと迷い出す。小牧の方でまだ撮りたいものがあるのだそう。暗くなっても撮れるのかと問うと、トンボと別にもう一つ被写体があるのだと言う。それ以上は言わぬので、根掘り葉掘りは遠慮した。トンボ好きなら小牧の飛行場かしら。飛行機もトンボも同じ格好だからと想像する。色々教えてもらったことにお礼を述べて、私も夕飯の買い物がこれからなので先に失礼する。
虫のこと、植物のこと、鳥のこと。深く知れたら毎日楽しいものだろう。俳句にはあまり詳細な知識は不要と言う人もある。浅く広く知っておく事は良いけれど、深く狭く知ることも良いと思う。否、深く知ることは必然的に広い方向へ広がっていくのではないか。トンボおたくのように見えたあの若者はこんなおバアさんにも上手に相手をしてくれて、人間生活上広い経験と知識を持ち合わせているという証拠だ。
父、星眠は花も鳥も虫や動物も、なんでもよく見て学ぶ態度が真直ぐだった。ことに野鳥は特徴を捉えてたくさんの句を詠んでいる。
一斉に雪加舌打ち麦刈らる
落葉敷きつめて尾長の無言劇
椋鳥のぞろぞろあるき冬ぬくし
虎つぐみ滅びの歌を枕辺に
青鵐鳴く晴天にして樹の雫
翡翠の一閃枯野醒ましゆく
波戸にまつ鶚長身明易き
水楢の縞の動きて小啄木鳥をり
切株をたつ頬白の一呼吸
郭公の粗忽鳴きして森くもる
どの句も鳥好きならすぐ納得。鳥の名を知らなくても、詩の心は感得されるだろう。詳しく見て、知って、詩に昇華すること。それは何も自然に対してのみならず、この世の全般、自身に対しても同じことに違いない。俳句の極意はそこにこそあるのではと思いつつ、、。