シンビジウム花芽を固く二月果つ
満を持すシンビジウムの花芽かな
シンビジウム花芽堅固に満を持す
シンビジウム花芽堅固に二月果つ
亜紀子
シンビジウム花芽を固く二月果つ
満を持すシンビジウムの花芽かな
シンビジウム花芽堅固に満を持す
シンビジウム花芽堅固に二月果つ
亜紀子
栃冬芽 亜紀子
艶やかに眠らず覚めず栃冬芽
きらきらと沼の面もまた日向ぼこ
一月の藪蘭の実は地の瞳
北吹くやばらけつ寄りつ椋鳥の群
冬ぬくし遊びて過ぐす鵯の群
寒中の鴉声に恋の兆しかな
奇しきかな菫咲きつぐ寒最中
春ならむ鴉の声音七色に
つぎつぎと木の芽張りゆく大通り
暖冬の雪吊りのやや緩びをる
山雀がカメラに止まる冬うらら
大粒の雨しづくなり暖かし
若きらに何が因果か大試験
咳しるき人を恐るる暖房車
新人の活躍著き初句会
除夜詣 亜紀子
父が神仏には縁遠い人だったせいか、子供の頃に家族そろって初詣をするなどということはなかった。除夜の鐘が聞こえてくると、家の前の細道を人声が通り過ぎてゆく。夢うつつにその声を聞きながら床についた。だいぶ大きくなってから一度お参りしましょうよということになり、きょうだい四人と父と連れだってあまり人の来ない静かなお宮さんに出かけたところ、その年父はぎっくり腰を患った。慣れないことをやったからだと、後の語りぐさである。
今年はいつにも増して暖冬で歳末らしからぬ日が続いたが、大晦日はさすがに寒くなった。年越しの蕎麦を済ませ、はて何もすることがなくなった。夫は例年の雪山登山中。久しぶりに帰省していた二人の娘は地元の幼なじみと女四人揃って車で海の初日を拝みに行くという。どこで夜を明かすかと聞けば、コンビニの駐車場で、と。勇ましい限り。息子と私二人が残された。近所でお参りしてお神酒をいただいて来ようかと提案すると案外簡単に乗ってきた。十一時半から係の氏子さんが境内で参拝者を迎えてくれるということだったので、厚着して家を出る。星が冴えている。町内の氏社は徒歩十分とかからない。それにしても人が歩いていない。誰もお参りに行かないのかしらんと訝しく思っていると、焚き火の匂いがして、御社に篝の明かりが見えた。
揃いの法被で氏子さんたちが焚火の番をしている。風が強く、火の粉が派手に舞う。傍らの桜の冬木を焦がさんばかり。火の番ばかりで参拝者は私たちだけ。時間が早過ぎたようだ。皆に挨拶をして、先ずは型どおりにお参りする。どうやるんだっけと、息子。私、いい加減。それでも二人並んで手を合わす。果たして何を祈ったものだろう。
祈っても祈り切れないこともある。請い願えば切りがない。流れ星に願うのと、神に祈るのと何が違うのだろう。そう思うのは不信心のなすところ。信心のある人曰く、神さまは我々の願いなどは端からご承知ゆえ、ことさらにお願いする必要はない。ただ感謝の念を捧げるのみ。今日までの無事のお礼を述べるのだという。なるほど、それなら祈り悩むことはなく、安心だ。
お参りを済ませると、小さな湯呑みでお神酒をいただく。一緒にあたりめをすすめられる。炎に照らされながら、息子は二杯目を頂戴。私は元旦の雑煮の用意があるのでお酒は遠慮しておく。
お神酒の梯子をしようということになり、別の町内の少し遠い神社へと足を延ばす。小学校への通学路だった道を行く。闇の中で皆が小さかった日々が思い出されてくる。目指す神社では鳥居の下から人が列を作って並んでいる。氏子さんの数も多く、いくつかテントが張られ、お神酒の他に善哉やおでんなども支度されているようだ。十二時まで待ってくださいと言われ、私たちも列の後に付く。午前零時、明けましておめでとうございますの大きな合図でお参りが始まった。先程は除夜詣、こちらが初詣ということか。
お神酒をいただくテントの下に立って順番を待っていると、係の氏子さんがやおら、あっ、Gちゃんとびっくりする大声で息子の名を呼ぶ。頭の手拭をはずしたその人の顔を覗くと、息子が小学生だった頃通っていた警察剣道場の先生。私の顔は覚えていらしたが、成人した息子に遭うのは初めてでよほど驚かれたようだ。懐かしいかぎり。たまにはまた道場に顔を出してと誘われる。善哉のテントで今度は私が振舞いにあずかっていると、えっ、Gちゃん?とまたもや突然の大声。こちらも同じ道場の先生だった。まあ、懐かしいことこの上なし。篝火の明りと火の匂いが私たちを昔へ連れて行ってくれるよう。
時も人も、すべては流れてゆく。怒濤のような流れの中でも、頭ひとつ出して凌ぐことができれば、息が継げる。やがて凪ぐ時も来る。また次の波が来るかもしれないが、それも繰り返しである。こうして静かな大晦日を迎えていることにただ感謝。
帰り道、コンビニに立ち寄ってあたりめの袋を買う。冷蔵庫にお正月用の特別のお酒の小瓶が控えている。
選後鑑賞 亜紀子
四姉妹若井を汲みし頃はろか 大谷阿蓮
元旦に身を浄め厳粛な心持ちで若水を汲む。地方によっては年男の役目であったり、あるいは一家の長の仕事であったりするそうだ。神へ供え、また正月の煮炊きなどに用いる。掲句の状況はどのようなものだったろうか。四姉妹と打ち出されているゆえ、若井を汲む儀式そのものよりも、その後の水仕の状況に想像が巡る。若く溌剌とした四姉妹が、それぞれに母を手伝い父に仕えて、時にお喋りにささめき合いながら立ち働いている。明るく、美しく、清々しい新年の朝である。そしてその思い出も今ははろかと結ばれて、胸切ない。若かりし日には正月は浮き浮きと胸躍るだけのものであったのが、いつの間に、郷愁というだけでもない、一抹の愁のような感情を伴う日になっていた。
籠鳥の瑠璃も若水浴びにけり 堀口星眠
若水を汲む滝音のあらたまる 山下竹搖
荒海に突きの一撃初稽古 長井恆治
空手の初稽古だろうか。寒風吹きすさぶ日本海に真向かい、丹田に力を込めてえいっと気合いもろとも繰り出す突き手。字義どおり、海中に入り波そのものを相手にしているのかもしれない。心も身体も一新する年頭の練習。
リハビリの効きめぼちぼち梅ひらく 山口一江
手術や治療は成功。後のリハビリが肝心。リハビリ効果は即効で目に見えるものではないだろう。励みながらも、作者のようにぼちぼちと焦らぬ心持ちが大切なのかも。そうしているうちに、気付いたらずいぶん楽になっているという感じなのだろうか。梅ひらくの語が明るい。
参拝の帰路に小さき雪の富士 高橋富子
初詣のお宮は山路の上にあるらしい。清々しい山気の内にお参りを済ませての帰り道。見れば山並みの向こうに白く輝く富士の姿。幸先よし。小さきの語にかえってありがたみが増す。
つまづきて身の老いを知る恵方道 松尾守
我々はある時突然に老いるわけではない。少しずつ坂を降りて行っている筈で、それは何となくは分っているが、無意識である。ところがほんのふとしたことで躓いて、改めて身の衰えを意識させられることはある。ここでは恵方参りの途次というのが味噌で、少々皮肉である。しかし、昔から何か縁起の悪そうな出来事を反対に瑞兆と捉える験かつぎもある。少なくとも、我が身の老いもすかさず一句にした掲句の作者。その精神は常に若々しく、衰えを知らぬのでは。
足馴らす背戸の小径や藪柑子 南雲節子
足馴らす小径とは、試し歩き、リハビリの散歩道ということか。屋敷裏の林の中のちょうど手頃な細道。暖かなこの冬、柔らかな落葉の道を杖を手に歩けば足元には可憐な藪柑子の赤い実。
谷へだつ峡の一村雪ごもり 鈴木乘風
雪深い谷間のこちら側からあちら側の集落が見渡せる。向こうの村のたずきの詳細は見えず、ただ雪の中に静もるばかり。民話の世界。
冬草の青々としてなぞへ畑 田村美佐江
本当に暖冬であった。青草が絶えることなく畑の斜面を覆っている様子、さもありなんと想像できる。
母子手帳出で煤掃の手の止まり 松井しづ
年末の大掃除の途中、古アルバムに見入ってしまったり、雑誌を捲ってしまったりはよくある。上五に母子手帳といきなり来れば、これは手を止めざるを得ない。
雪墜る音信濃の漬菜やはらかし 星眠
(火山灰の道より)
信州は星眠先生の第二の故郷かもしれない。柔らかい漬け菜は野沢菜だろうか。
(亜紀子・脚注)