伐採の見積り紅葉さなかなる 亜紀子
秋果 亜紀子
油茅穂を焦したる秋暑かな
木洩れ日に舟を干しをり釣舟草
瀑布図に藍のひと色秋の声
蜻蛉は風を住処に渡りゆく
秋果食む朝の胃の腑のすこやかに
人寄せて神輿小さき御堂筋
秋の蚊や和漢の薬祖並びをる
少彦名ビルの狭間を発ちにけり
鳴く虫の老いしか耳の衰へか
鳥どちの秋果小さし酸く苦き
お喋りの阿吽さやけき姉妹
ひと時雨ありし家路に灯の流る
楽しかろ南京はぜを啄むは
鉦叩 亜紀子
十月四日に東京で聞いたつくつく法師が最後の蝉となった。あの残暑も何処へやら、今は夜々虫の音に耳を沈めている。その虫さえ栄枯盛衰があり、通りの青松虫はとんと静かである。いまだに机辺で親しく聞こえるのはおそらく鉦叩だろう。おそらくというのは、その虫の音が本当に鉦叩なのか少し首を傾げたくなるからである。繰り返しのリズムは確かに鉦叩だが、音色がヒッヒというように幾分濁っている。高く澄んだチンチンという鉦の音をこのところ聞かない。
同じ秋の虫でも、歌い始めの頃と、時雨るる最盛期、そうして最後に残されて僅かばかりになった頃とでは、音色や音程、拍子が微妙に異なって感じられる。鉦叩の音も継時的変化のひとつを表しているのかもしれない。そう思いながら、どうも自分の耳が信用できないのである。耳が悪くなった。
そろそろ明りを消そうかという頃、隣室の息子に呼ばれた。勉強に飽いた子の机のパソコン画面には人の可聴域のチェックというのが出ていて、私にも試してみろと言う。これこれ、今ちょうどこのことを考えていたのだと、ヘッドホンを両の耳に当ててみると「普通の環境ならそろそろ聞こえなくなる一三〇〇〇ヘルツ」というのが覚束ない。それ以上高い音は完全に聞こえない。十五歳の息子には聞こえるようである。婆さんだなあと憎まれ口を聞く子に、お陰さまで歳を取らせていただいたと返しながら、何年か前に話題になったモスキートという音響器機を思い出した。若年層にしか聞こえない不快な高周波数の音を出し、屯する若者グループを追い払うという器械。確か名古屋の駅の地下街にもひとつ設置されたと聞いた。現在はどうなったか。お洒落な高級店の入った一角である。何も悪いことをするでなし、犬猫のように追い払わんとするのは理不尽なことと思ったが、あの装置の根底に若さへの嫉妬が隠されていなかったろうか。
どうやら鉦叩の変わった音色の原因は私の耳に負うところが大であるかと思われ、こんなことを一句に詠みたいと思う。あれこれと言い回しを模索しながら、説明臭い句が浮かんで消える。句会などで「説明ですね」と一刀両断されてしまう態の句だ。
「説明」に過ぎぬ句とはどういうことなのかと、暑い八月のとある会で質問された。ご自身で考え抜いて、どうしてもその意が汲み取れないと。汗を拭きつつ、こちらも十分に答えることができなかった。辞書を持ち出せば、説明とは事項の内容や意味をよく分かるように解き明かすこととある。簡明直截な事実描写でなく、理に落ちた語り口である。また一方で理屈はなくてもただ平板な描写、感興の何ら感じられぬ句なども「説明」で片付けられる。ところがそうは言っても掴み具合、語り方によってはどちらも良い句にならないとも限らない。いずれ俳句は言葉で何ものかを他者に伝えるのだから、これを説明でないとは言えまい。
こうなると、説明的説明と、説明的でない説明、いわば感動的な説明とでもいうものの違いを述べるのは難しい。同じ一茎の花を見て同じ「奇麗ですね」と言葉を発する時、お座なりに言うのか、本当に心に感じて言うのかによって声の調子、表情、瞳の見開き具合などが違う。そうして自ずと「奇麗ですね」の違いを感じることができる。ここを感じさせるように言葉にするのが俳句だろう。結局は具体的なその一句一句に即して考えるべきことかとも思う。
あれやこれと理に落ちたことを書き連ねた。子規の『病床六尺』の一節を思い起こす。
—写生の作を見ると、ちょっと浅薄のやうに見えても、深く味はふほど変化が多く趣味が深い。写生の弊害を言へば、勿論いろいろの弊害もあるであらうけれど、今日実際に当てはめて見ても、理想の弊害ほど甚だしくないやうに思う。(中略)写生は平坦である代りに、さる仕損なひはないのである。さうして平淡の中に至味を寓するものに至っては、その妙味に言ふべからざるものがある。—
先ずは黙って一日一日素直に句を詠んでいこうと思う。