橡の木の下で

俳句と共に

「蟻の塔」令和6年「橡」6月号より

2024-05-28 16:27:09 | 俳句とエッセイ
 蟻の塔  亜紀子
 
大鞄四月の駅を行き交へる
無礼講コンパ佳境に新社員
ふるさとの山川思ふ初蛙
春夕日泣いてゐるよな笑むやうな
つばくろも来たり街角コンサート
蟻の塔めくや我が家へ階のぼり
日永さに子らも雀も呆け遊ぶ
開きゆく若葉小啄木鳥がひと巡り
雨ひと日一丁に椎香るなり
翩翻と郡上本染め鯉のぼり
駒返る草もなびくや新車両
白き花希少豆梨あふれ咲く
花散らす雨となりたり仏生会
禅林にひときは高く桐の花
今朝もまた一寸育つ菖蒲の芽


「写真と俳句」令和6年「橡」6月号より

2024-05-28 16:23:23 | 俳句とエッセイ
 写真と俳句  亜紀子

 近隣の椎の花が満開になった。ベランダのガラス戸を開けると頭がくらっとする強い香り。道を行けばそのむせ返る匂いがどこまでもついてくる。ここへ越してきて初めてのこと。椎に限らない。遅かった桜が一斉に咲きだして後はあらゆる花がこれでもかと言いたげに満ち満ちている。歩道脇の躑躅は全面花。その端の白詰草やのぼろ菊さえも。庭園の白い花に目を奪われて近づいてみれば、車輪梅。なんじゃもんじゃの花が真白に溢れるのは例年のことだが、車輪梅がこれほど生き生きと咲いているのを見たことはない。
 どうしたことだろう。この横溢感、力強さ、美しさ、不思議さを俳句にしたいと頭をめぐらし、言葉を探す。しかし頭の中でぐるぐるしていると景はぼやけて、何だかもうどうでも良いような解説文しか浮かんでこない。
 ジム・ブランデンバーグという写真家がいる。長年ナショナル・ジオグラフィックや映像メディアで活躍してきた米国の自然写真家。その写真が俳句のように感じられる。狼、草原、海、植物、時には人、焦点があり、自然の本質が抽出されている。取り出された物の後ろにさらに奥深い意味が蔵されているのを感じる。凄いなあ。こんなことは死ぬまでかかっても俳句にできないなあと自分の作句は忘れ、実はパソコンの画面を見て楽しんでいる。
 そのブランデンバーグに憧れて、全く面識もない彼に会いに行き、そして写真家になった日本人がいる。ブランデンバーグはカナダとの境の北米湖水地方に住んでいる。車を使わず生まれて初めて漕ぐカヤックで湖から湖を八日かけて辿り、見事憧れの写真家に会う冒険譚が面白い。青春の一途な記録。誰にでも真似できるストーリーではない。『そして、ぼくは旅に出た。はじまりの森ノースウッズ』大竹英洋著

 その本の中の一節「世界を切り取って一枚の写真にしようとするとき、機材、被写体、構図、アングル、絞り、露出・・と、それこそ無限にも思える選択肢が存在する、、、そのなかからたった一つを選んでいかなくてはならない」とある。この時点で作者はまだ写真家になろうという思いが先にあるだけで、その選択肢の数に絡め取られて気持ちが疲弊しそうになっている。
何だか俳句にも似ているなあ。
 同じ旅で関わりを持つことになったこれまた世界的に有名な探検家ウイル・スティーガーからのアドバイス「うまくなるためには撮るしかない。写真を撮って、フィルムを見て確認する。そしてまた撮って、見て、撮って、見て、撮って、、」
 この旅の終わりにブランデンバーグが作者の撮りためた写真を選別すると、特にこだわりを持たずに心のままに撮った、作者自身は印象に残っていないようなものが多く選ばれたよう。そして君はいい目を持っているねと褒められている。ああ、これも俳句あるあるだ。「いつも目を開いておくことが大事。いろんなものに気づくためにね。そして心を開いておくことが必要だ。頭で考えるのではなく、あるがままに感じ取れるように」の言葉も。
 写真のことは分からないが、俳句の肝に似ていやしないか。橡の作者には俳句も写真も両方される人がいるだろう。教えてもらいたいものだ。一歩前に踏み出して対象に迫り、何が大切か、大切な物を切り出して提示する。省略された背景も読者が感得できるような一句。全てが一様に写っている絵葉書写真ではない俳句。
 生涯一句の言もある。誰でも一生に一句はこれぞという名句を残せるという慰めというか、翻ってモチベーションと言えるかもしれない。わが生涯にいひ捨てし句々、一句として辞世ならざるはなしという芭蕉ほどの覚悟は持てずとも、せめてこの句はというものが遺せたら、それこそ究極の我が世界の省略提示、人生そのものの抽出。それを可能にするのは日々を誠実に生き、経験を積むことだろうか。