黙に耐へゐる時重き営巣期 亜紀子
ヒヤシンス 亜紀子
今朝も来る弾丸歌手の目白どち
明けやらぬ窓に湯が鳴る阪神忌
天が口あけて泣きをり雪激し
ほまち畑すたれ小川の鴨流る
せせらぎも橋も小鴨も小さかり
葱畑の潰えにあそぶ石叩き
をはりなき寒風の渦高楼下
きさらぎの雨にもの芽の清らなり
ヒヤシンスらしかたすみの緑の芽
屋根に出て雀春日をまづ浴ぶる
余寒きびしちちははの忌を過ぎてより
杜ごとに四十雀ゐて囀れる
鴉知るやけい子先生なき春を
まづ芽吹く枯木のやうなあぢさゐが
もの芽出づ白腹つつく朽葉より
春鴉 亜紀子
月の変わる前に物置に溜った新聞紙や雑がみを紐で括る。町内の老人会の資源回収日にまとめて出すためだ。紐を引き絞る手指がさほど冷たくない。どこかで鴉がしきりに鳴いている。その声の色に何となく艶がある。ああ、春鴉だなと季語を思う。
田舎の父の家裏の崖に椋の大木があって、毎年鴉が巣ごもりの騒ぎをしていた。何かに父が書いていたと思う。
都会の町野けい子先生のご自宅にも大きな木があり、鴉が巣作りをしていたそうだ。けい子先生がベランダで餌をやってらした話、確か橡誌の編集後記に書かれたのではなかったか。その後、その木は惜しまれつつ伐られてしまったのだが、鴉は利口な鳥だから今も先生を探しているかもしれない。
先生がご病気になられてから、私はいつも励ましをいただいていた。ちょっとした事務的なメールを送るのにも何をどう書こうかと逡巡があったが、お返事はいつもと変わらず、私の明るい部分を見てくださったものだった。何をどう書いても、安心をくださった。父星眠に似ていた。父はけい子先生がお若い頃からずっと町野ファンであった。きっと、先生の中に自分に近いものを見ていたのではないかと思う。
新涼の薄絹肩をすべりけり 町野けい子
人去れば風と歩めり秋の苑
常に微笑み絶やさぬ、美しい人だった。作品には時折健やかなナルシシズムが薫り立ったが、日常の付き合いにおいては抑制が利いて、「私」の全くない人であった。「私」のないところに町野けい子という「私」の美学があったのではなかろうか。その出自からして、いにしえの武将に通うところ、女性性を越えた優しさの真があった。春鴉のひとり言が、私のひとり言を引っぱり出す。これで終わりにしよう。
言い訳だが、この春は身辺慌ただしく、あれこれ失礼してしまい、俳句を考えること疎かになっている反省がある。俳句忘備録を付す。
瑠璃堂に涼風かよふにしひがし 亜紀子
瑠璃堂と最初に置くと、瑠璃堂が分らないと始まらない。分らぬ際は「瑠璃堂」という言葉からのイメージを各人に問うことになる。自分であれば、故宮の瑠璃の宮殿のような建物を想像する。そこに涼風が西から東へ抜けていくという状況は心地良いが、はて、季節的におかしいような気もする。実際は比叡山の正教坊が守る薬師如来を安置した御堂。信長の焼き討ちを免れたという口碑の遺る、もの寂びた小さな御堂である。御堂の正面は西(浄土)を向く。御坊さまのご好意で開けられた正面の扉のみならず、東向きの裏戸も開けられてお山の涼風が通っていた。私は母を亡くしたばかりの時。西と東、あの世とこの世は案外に近く繋がっているような気がした。これらの説明なしに、この句が意味を呈するか否か、自信がない。
雫して御稲御倉梅雨に入る 星眠
伊勢神宮三句の前書きがある。前書きがなければどう対処しようか。
雫しての上五の導入が良い。みしねのみくらと読めないと調べに困るが、倉の有り様はなんとはなし想像がつく。雫と稲倉とが響き合う。そして梅雨に入るの下五はぴたりと決まる。細かな説明がなされなくとも、五七五のなかに十分各人の想像をかき立てて、胸の内に落すものがある。知によらず、説明にたよらず、十七文字、十七音、それだけが作り出すイメージの世界が俳句の強さである。一旦自分を手放して、読者を思い遣り、読者に親切にする、それが自然のうちに己の表出につながるというのが俳句の行き方ではないだろうか。道遠し。