橡の木の下で

俳句と共に

「石の鐘」令和5年「橡」8月号より

2023-07-29 13:00:53 | 俳句とエッセイ
 石の鐘   亜紀子

かばかりの緑を街の緑化とふ
台風の来るとて聡き森の木々
晴明さん梅雨梔子の濃く匂ふ
咲き初むる橋のたもとの駒つなぎ
菖蒲田に落ちてかはづに囃さるる
上州の今は昔の麦の秋
クレソンの芥子粒よりも小さき種
子烏の喃語喋々青葉かげ
青葉して世々古りにける石の鐘
人間の盾沖縄の梅雨如何に
子を連れて椋鳥は庶民派梅雨最中
そよ風と蜻蛉あそぶ蓮の上
合歓の花てふてふ誘ふ昼さがり
恙なく子育て了るつばくらめ
短パンの力士も共に小買物

「八月の青啄木鳥集の中から」 令和5年「橡」8月号より

2023-07-29 12:50:44 | 俳句とエッセイ
 八月号の青啄木鳥集の中から    亜紀子

 青啄木鳥集は橡同人の切磋琢磨の道場です。巻頭から十人、月によって二十人くらいまでは順位が付いて毎月入れ替わりがあります。それに続く何十人かは同人名簿順(同人入りした年度順)です。
 タイムを争う陸上競技であれば順番は物理的に明らかですが、俳句の良し悪しの順位付けはどうしたらいいのか悩みます。多分に心理的な問題で、そもそも上から下へと並べること自体が無理なのではと思うこともあります。それでも道場ですから、精進の目標は欲しいです。同人はすでに一定のレベルに到達されているので五句中にはっと目の覚めるような作品が含まれていること、その数がより多いことを目安にしています。そして言葉では解説しにくいのですが、やはり全体として「いいなあ」と思わせられる作品群です。  
 それら上位の中からは秀句として鑑賞される機会がありますから、それ以降の句の中でことに心惹かれ、学んだ作品を挙げてみようと思います。

十一や狭霧に沈む榛名富士    大澤文子

 上毛の名山の一つ榛名富士。その名の通り端正な山容を、今日は霧をまとい湖のほとりに浮かべています。慈悲心鳥とも呼ばれる十一という鳥には哀しい伝説があるのです。久しぶりにあの鳥の声を耳にしたような気持ちになりました。

免許返納でんでん虫の視野となり 伊藤霞城

 農業を生業とされる作者にとって車は仕事、生活全般に渡り不可欠な道具と想像できます。蝸牛の視野とは家の中からひょいと顔を出した範囲ということでしょうか。ゆっくりと進み範囲も限られる。この比喩は思いもつきませんでした。

葉書出し梅雨タクシーで本局へ  同

 続く句にも感慨を覚えました。梅雨タクシーという語もここでは無理を感じません。

漕ぎ出づるばらの一片糸とんぼ  佐藤梅代

 薔薇の花びらが落つるともなくはらりと離れたように見えたのは一匹の糸とんぼ。ここは重力から自由になっている印象。再読して薔薇の一片が水に落ち、そこからとんぼが発ったと言えるかしらとも考えましたが、やはり最初の印象で良いだろうと思います。薄桃色の蓮から糸とんぼが離れるところもそうでした。

蛸壺に塩をふりかけ追ひだせり  平石勝嗣

 蛸壺を追い出された蛸はまさに儚き夢から覚めたことでしょう。蛸壺漁を調べますと、蛸はその身を守るために壺をいわば鎧としているわけですから容易には引き出せないのですが、塩をかけると自から出てくるのだそうです。今は効率の点からこの漁は廃れているそうですが、こういう面白い句は平石さんの独壇場。

巡礼の道のはるかに麦の秋    菅原ちはや

 麦とうどんの連想もあって、四国のお遍路さんを思い浮かべました。はるかに広がる黄金の麦畑。巡礼の旅、その思いに果てはあるのでしょうか。郷愁、胸に迫る切なさを覚えます。しかしはたと作者はクリスチャンであることに気づきました。かつて死海のほとりを巡礼されてもいます。
 初夏の風吹きかはるガラリヤ湖   句集「草も木も花も」所収
と詠まれたあたりの思い出の景かも知れません。どちらを取っても句の持つ力は変わらないでしょう。

 もっとたくさん挙げたい作品はありますが、私の下手な講釈は無用のものです。人の句についてお喋りをすると、最初に受けた感動が喋るそばから溶け出していってしまうような危うさを感じます。黙って皆様の句をじっくりと味わいます。