蟻んこのやうに砂場の幼どち 亜紀子
寒の雨 亜紀子
芥狙ふ鴉も仕事始かな
今朝の富士雲の真綿を被てをりぬ
百合鴎夕焼うするる京の空
うすずみの如き交はり寒の雨
冬ぬくき母の口ぐせありがたう
受験子の列雪雲も押し移り
くぐるたび真白に現るる巫女秋沙
両の耳音で蓋して冬の街
自転車の稽古ころぶな寒四郎
庭草に霜の花噴く寒さなり
蝶番きしむ寒中体操に
早番の子に凍て星のさめゐたり
ささくれて春を待ちをり唐楓
飛梅と立札たちぬふふみをり
鶺鴒の忙しせはしと寒ゆるぶ
神宮東公園 亜紀子
寒の最中、一句の種を探しにと外へ出る。三キロ程の距離にあるショッピングモールへ買い物のついでに、途中の神宮東公園に寄り道して行こう。こんな日、父星眠なら犬の綱を引いて碓氷川縁を歩き、真白の浅間嶺を仰いだことだろう。
信号をいくつかやり過ごし、なるたけ細い路地、横道を選んで歩く。そうすると軒端の鉢や、寒雀や、ちょっとした景色が見えてくるから。
神宮東公園は大規模工場跡地を整備して造られた。神宮東というのは、南西に熱田神宮が位置しているのである。自動車道をはさんで南北に別れているが、私がいつも行くのは北側。広い芝生、花壇に木立、菖蒲園、子供用の遊具。域内に体育館、屋外プール、テニスコートなどがあり、いかにも都市の公園、市民の憩いの場。ただ、設備はいささか老朽化しているようだ。人工のせせらぎが軽い音をたてて瓢箪形の浅い池に注いでいる。池の周りはあけぼの杉に囲まれ、青葉や黄葉の季節は気持ちが良い。子供の小さかった頃に池中のやごを採って帰り、薄羽黄蜻蛉が出てくるのを見たことがあった。今は骨のような木々が風に鳴るばかり。積もり積もったあけぼの杉の落ち葉が足裏に柔らかい。
子供用プール程の小さな池なのに、三十羽ほどの鴨が漂う。多くは軽鴨。一羽目に立つのは真鴨の雄。皆何をするわけでなく、首を埋めて浮寝の一団。三本の若いあけぼの杉の生えた小島にも眠っている。呑気そうなところ、御同輩と声をかけたくなる。こうした水鳥たちは街中の人口池などをどうやって見つけ出すのだろうか。今シーズンは鳥インフルエンザの流行が問題になっているのでつい熱心に様子を窺ってしまう。大丈夫そうだ。鶺鴒が一羽、忙しなく行ったり来たり、ちょっと鈴を振って飛んでいった。
手当たり次第一句に詠んでおこうか。そういえば、思い付きのようにすぐさま何でも呟いてしまう人がいる。トランプさん。大統領に就任したら、呟くだけでなく実行に移してしまうので大変だ。思い付きが実際になってしまうのだから権力というものは恐ろしい。それを実行力と言って囃す人も多いから、世の中は分らない。どうしていい加減な呟きを無視することができなかったのだろう。注目されなければ自滅しただろうに。トランプさんの後を追いかけて視聴率や販売数を稼いだマスメディアが、今はそのトランプさんの攻撃を受けている、狐と狸。
呟きにも満たない五七五であるが、手当たり次第では句にならない。心が動かなければ、本物の言葉が生まれない。もっと良く見なければ心が動き出さない。
土曜日だからか、父親の子供連れが多い。あちらにもこちらにも、若いお父さんが小さな子供を遊ばせている。お母さんは街へお買い物か、家で家事に励んでいるのだろうと想像。漫然と風景が過ぎていく感、心ここに在らずかもしれない。メモ書きだけ持って帰ろう。星眠先生はメモを取らぬ記憶力の人だった。私はメモを取らないと大事なことを忘れてしまう。
買物のメモを持って、公園を後にモールへ移動。特別どうというショッピングモールではないが、東日本大震災の折、東京で帰宅難民になった翌日に来た場所。都内の夜のコンビニの食料棚があっという間に空になったのを見た目に、ここの陳列棚の明りが眩しく怖かった。あの時の目が今は無い。常変わらぬ売り場である。
他人の句を選させていただくからには、先ず自身が良い句を生まなければならない。それが始まりで、終りであろう。努力を惜しんではならない。自らを鼓舞する状況を作らなければ。
「自分も含めて皆下手の横好きだよ」
力んでいると、父の声が聞えてくる。まあ、いいか、今日は。また来よう。もっと、よく見よう。返りは寄り道せず、少し近道をして戻ろう。
選後鑑賞 亜紀子
法螺の音の山下り来たる淑気かな 山田久惠
初護摩の触れなのだろうか。ぴりりとする寒さの中にも日の光に眩しさが感じられる。冬枯れの木々の芽も心なし膨らんでいる。山伏の法螺の音の響きに、天地は新しい年の喜びで満たされてゆく。
晩学の辞書買ひに行く初天神 川南清子
学問の神、天神様の正月早々の縁日。買い物は新型の電子辞書だろうか。画面の文字の大きさを変えることができるので、晩学の目には有り難いのだ。今年も良い句が授かるようにとお参りも欠かさない。面白い初天神の句。
去年今年妻の跫音に耳すます 岩嵜清一
作者は入院中。闘病の身に外の光をもたらしてくれるのは看取りの夫人。医師や看護師らの靴音との違いは、病床の日々のうちに自ずと区別されるようになった。「去年今年、耳すます」の語に心中を察する。
初日の出利根の橋へと孫連れて 吉藤青楊
関東平野の大河、利根川。初日を拝みに大橋の真中に。孫連れての措辞に、穏やかさ、平安の気が流れている。
朝霧にくぐもる街や親鸞忌 北村玲子
親鸞の命日は陰暦十一月二十八日、新暦で一月十六日。冬霧に包まれた朝の街はいつもの見慣れた街とは異なる様相。一瞬見知らぬ土地へ来たかのような錯覚。 霧の中から布教の親鸞が歩いてくるやもしれぬ。
硝子戸に日のぬくもりや枇杷の花 齋藤静江
咲いているような、いないような地味な枇杷の花だが、花の少ないこの時期、見かければ必ず「ああ、枇杷が咲いたな」と何か懐かしく、郷愁のような気持ちが湧いてくる。ちょうど硝子戸の中の日のぬくもりのような心持ち。
父の忌を追ふ母の忌や茶の咲ける 平井喜代子
毎年、茶の花の咲くちょうど同じ季節に父上、母上の忌日が続く。父上が逝かれ、ほどなくして母上の去られた印象もある。仲むつまじいご両親であられたのだろう。「追ふ」が秀逸。茶の花に、寂しさとあたたかさ。
蒼天に千手ひろぐる桜の芽 水野ひさ子
大きな古木の桜のようだ。広げた枝々に数多のまだ堅い蕾。晴れ渡る寒の空。桜の精はさながら観音のようである。
蝋梅の蕾日に溶けひらきけり 中村文子
繊細な蝋細工のような蝋梅の花。日に透けるようなその花弁は、言われてみると本当に日差しに溶かされたのかもしれない。
与那国は波の声のみお元日 西岡礼子
沖縄県八重山諸島。日本最西端にある与那国島。おおらかな南の島のお正月は、きっとどんなにかのんびりしていることだろう。緩やかな波音に心洗われる。詠みぶりもいかにもゆったりと。
軽やかに太郎冠者出で初笑ひ 藤田彦
新年の宴。狂言が花を添えて。狂言師は日頃の研鑽、修練をその都度の舞台に賭ける。軽やかさは、太郎冠者の磨かれた動き。めでたい初笑い。