無農薬葎に生ひし冬瓜なり
山に幸煮物に飯に栗づくし
亜紀子
秋の風 亜紀子
子規庵
ますらをの泣きし六畳秋の風
広島忌明けて衰ふ空の色
高楼庭園とねりこそよぐ空の秋
口ついて残暑見舞のホ句出づる
ふるさとの夜のひとしほの涼しさよ
うたかたや皆をさな名で酌む麦酒
がまずみの花照る崖の小家かな
はからずも殖えたる百合の今朝ひらく
集中禍蚊の忌避剤を塗り残し
しづかさや露草の露結ぶ頃
一斉に露草青き目を瞠る
精霊ばった蕗の大葉を食ひ尽す
夢覚めしごとくに今朝の涼新た
夏終る身を腐すよな雨つづき
白秋やさらの句帖を携へて
負け試合ほとぼり冷めて氷菓食ふ
逝く夏の時の移ろふ厨窓
根岸子規庵 亜紀子
昨年の秋、おこじょ会の菅原さんから子規庵の絵はがきを送っていただいた。無造作に咲き乱れる八千草の上に糸瓜がぶら下がり、中に女郎花の黄色の花が涼やかだった。何故か懐かしい景。菅原さん曰く、まさに写真の通りの庭ですよとのこと。八月のはじめ秋草には些か早い蝉声降る日、憧憬の根岸の吟行会が実現した。
子規没後百年余り、関東大震災と第二次大戦の空襲とを潜り、庵は変遷を遂げてきた。実際空襲で消失し、現在の姿は昭和二五年に再建されたもので、保存会の尽力の賜物ということだ。正面入り口のぐるりは昭和色の濃いブロック塀に囲まれており、それと知らなければ通り過ぎてしまいそうな小さな家屋だ。
上がって奥へ進み、句会場に使われていた座敷と、病室兼書斎の二間が並んだ畳部屋に入る。程よく冷房が効いて、扇風機も回っているのは現代風。その風のなかに鶉籠が置かれていた。行儀の良い鶉が声も立てずに一羽きり。病床を慰めんと虚子がもたらした番の片割れは死んでしまったというから、子規もこんなふうに大人しい鶉を眺めていたのかしら。
書斎兼病室の六畳間に文机が置かれている。脊椎カリエスの病状が進み、伸ばせなくなった左膝を入れる部分を刳り貫いた特注品である。刳り貫かれた板は元通りに嵌め込む工夫がしてある。昭和二十年の東京焼尽を考えれば、この机も後の再現の品かと思われる。とは言え子規が亡くなってから高々百年、天板に空いた四角い小さな穴を見ていると、そこに痩せさらぼうた男の躯が生々しく感じられて来る。
この部屋で随筆が書かれた頃、病は熾烈を極めている。小鳥の水浴の愉快そうな様を描きながら、自身は湯に入ることができなくなって既に五年を経ていた。生活上の全ての自由、あらゆる楽が失われ、僅かに残るは飲食の楽と、執筆の自由のみと記す。その自由と楽でさえ、進行する病に奪われつつあった。とある一日には「誠に我枕もとに若干の毒薬を置け。而して余が之を飲むか飲まぬかを見よ。」と書き付ける。疼痛の激しきこと、病状の重きことは個人の日録の体裁の仰臥漫録に知ることができる。しかしながら、痛みをこらえつつガラス玉に入れた机上の金魚をつくづくと眺め、痛い事も痛いが奇麗な事も奇麗ぢゃと書く時、彼の心は既に痛みを離れている。子規の文章は病苦の上に逡巡しない。志を抱く彼に時間の余裕はなく、病専らにしている閑はなかったともいえようが。詩歌を論じ、日本を見つめ、あるいは小さな日常の一齣にこの世の真実を見出す。簡潔にして核心を突き、あくまで剛健。当時子規の写真を見た者が、生ける羅漢の様相の彼から、いかにして紙上に発表される文章が出づるかを疑う感に打たれたというエピソードがある。子規にとって執筆即ち生きることであり、生きる意味を真に見出している人間は勁い。さて自分は、取るに足らぬ目の前の些事に呑まれては煩悶を繰り返しているのではないか。
机の向こう、ガラス戸越しに庭を見る。棚から大きな糸瓜二、三本。その先のひと叢はまだ蕾の固い藤袴、あるいは鵯花であったかもしれない。蚊遣りの煙が細く燻っていた。
その日の昼食句会は子規にもゆかりの豆腐料理「笹の雪」で。仰臥して見る糸瓜かなとやると、それはもう詠み尽くされましたよと、姉羽さんの蹴爪の一蹴。どうも、すみませんと頭を掻く。鶉の句もたくさん出たが、誰も鳴き声を聞いたことがないと言う。昔父が番を飼っていた。当時は既に亡くなっていた祖母が、鶉の鳴き声は痰を切るようで気持ちが良いと好んでいたという。チョッキリキーと甲高く鳴く。一人が電子辞書で音声を聞かせてくださる。小さな機械が発したのはまさにあの声。成る程納得と、一同大笑い。それにしても、鶏をはじめ、鶉、小綬鶏、雉子などキジ目の鳥はみなたまげたように鳴くのはどういう分けなのだろう。それにまさか虚子は子規の痰切りにと鶉を持って行ったわけではないだろうと、ふと思い浮かべた。