また会おう 亜紀子
梅雨最中、今年も各地から雨の被害が報告された。庭では長引く雨にしびれを切らした蝉の羽化が始まる。その大方は熊蝉で、朝刊を取りに出ると抜け殻がいくつもぶら下がっている。木の葉の裏というのが昨年までの定位置だったのが、今夏の変身場所には草花が選ばれている。まだ蕾のままの百合の茎、アガパンサスの花弁、ミントやランタナの細茎に木苺の葉。どれも地面から幾ばくも離れていない低い位置。湿った草むらに散在する空蝉を眺め不思議の感。これもコロナの影響か。
いや、蝉にコロナウイルスは関係がない。日照時間や気温の問題なのだろうが、何か変わったことがあるとつい「コロナ」と思ってしまう。何となく気分の冴えない時にはこれもコロナ籠りのせいだわと呟く。実際のところコロナはあまり関係ないとは思うのだが。
籠りがちで新聞をはじめ身辺にある活字に時間をかけるようにはなった。家族の元に毎月届くJAFの冊子。その巻頭エッセイ「幸せってなんだろう「。ブレイディみかこが”We will meet again.”怒涛のコロナ禍の英国でこの四月にエリザベス女王が行ったビデオスピーチの一節を取り上げていた。第二次大戦中に流行った歌の文句とのこと。ブレイディ氏が保育士として働きながら、英国の政治、経済、社会について現場から実際に即し洞察した著『子どもたちの階級闘争』や『ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー』は橡にも多くの読者がいるのでは。彼女は人をよく見、よく聞き、その背後にまで思いを寄せる。べとつかず、歯切れの良い文体の芯から筆者の人としての心の在りどころ、カタカナ語でいえば、ヒューマニティーが滲み出る。
さて前述のエッセイに話を戻そう。英国人は女王の「わたしたちは再び会います。」に皆落涙したのだそう。ブレイディみかこは都市封鎖中でもネットで繋がっている(会っている)のに何故泣かされるのかと思ったそうだ。しかし人間が真実人間を信頼するには嗅覚、触角、味覚など五感の交歓が重要な鍵になると知る。共に餌を食い、匂いを嗅ぎ合う狼の群れのように。オンラインの繋がりと、会うこととの違い。それを本能的に知っているから皆涙したのだろうという。技術がどんなに発達しても人を幸福にするのは「会う」喜び。そして筆者自身ビデオ通話を切るたびに「絶対また会いましょう」と女王みたいなことを言っているのに気づくという。
コロナからは離れるが、永遠の別れに臨んで「また会おう」と言ったのは遠藤周作ではなかったろうか。実際に言ったかどうか記憶定かでないが、キリスト教者として遠藤は死をそう捉えていたように覚えている。
彼はキリストの復活を信じていたから。エリザベス女王の言も同様の観点から解釈すると王室シンパでなくともいささか胸が切なくなる。晩年父星眠は電話を切るときに「また会いましょう」とよく言っていた。会える望みのないであろう人々に。それは重くはなく、さらりと星眠流の言葉つきで。
「ロングタイム・コンパニオン」(一九八九年)という映画を久しぶりにネットで観た。これもコロナの暇といえなくもない。話はコロナ禍ならぬエイズ禍。八十年代初頭から原因不明の病として主にゲイコミュニティーを恐怖と悲しみに陥れたHIV。ウイルスの正体が分かり薬剤が作られたが、それまでに多くの人々が亡くなった。恋人や、仲間が恐れ慄きながら支え合うそのヒューマニティーの物語。私の贔屓の俳優は残念ながら話の早々に亡くなってしまう。映画の最終シーンで海辺を歩く主人公の一人が“(自分は生き残ったが、)亡くなった皆のところに居たい”と言うと、別の者が第二次大戦のように?と返す。そして向こうから亡くなった仲間たちが続々と笑顔で歩いてくる幻影。贔屓の俳優も混じって。やがて再会の幻は消え砂浜が続く。
また会おうとは我々の切実な願い。我々の存在理由。それを巧妙に断ち切ろう切ろうとするコロナは感染症の中でも相当厄介だ。
不意に一期一会という語が浮んだ。また会おうという思いの表と裏かとも思う。