橡の木の下で

俳句と共に

草稿05/31

2023-05-31 22:53:31 | 一日一句
菖蒲田にのぞく禿頭カメラマン  亜紀子

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草稿05/30

2023-05-30 23:01:54 | 一日一句
街暑し蛙顔してとぶ車  亜紀子

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草稿05/29

2023-05-29 23:09:09 | 一日一句
傘の日も子らはにぎやか枇杷熟るる 亜紀子

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「ありどほし」令和5年「橡」6月号より

2023-05-29 11:54:36 | 俳句とエッセイ
 ありどほし  亜紀子

白雪の花を散り敷く小豆梨
寄生木の毬はまん丸春の雲
囲はれてはるりんだうは空の青
いつの間に森拓かれてみちをしへ
真木の橋くぐる花見の小舟かな
ノンポリも清き一票花の昼
つばくらや子を自転車の前うしろ
新緑を浴びにゆきたし街を出て
若人にうつうつと椎の花咲く
なだれ咲く著莪に小魚の一つ跳ね
暮れ遅き蒔絵に遊ぶ貝の蝶
矢車の回ればはやす四十雀
摘まずあり茶庭の小さき茶垣の芽
温暖化烏柄杓も舌出して
ありどほしただの一両小さき花

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「チャットGPTその二」令和5年『橡』6月号より

2023-05-29 11:48:58 | 俳句とエッセイ
 チャットGPTその二    亜紀子

 先月五月号にチャットGPTのことを書いた。相手は機械なのにまるで人間とやり取りしているような気分になってしまいびっくりするばかりだが、最近はその負の側面を報じるニュースを連日目にする。世界中の我々の情報を濡れ手で集積しているわけだから、プライバシーの保護はどうなっているのか、見えないところで集めた情報が不正に利用されていないだろうか。そもそも情報の解析方法も外からは見えないのだから。疑問と不安はいくらでも湧いてくる。そうした問題点が解消され安全が確保される規制のもとで運用されない限り、この開発をしばらくは凍結すべしと識者らの宣言も出た。日本のお役所ではいち早くチャットGPTを業務に利用しようとしているらしい。おいおい、闇鍋に我先に箸を突っ込むみたいではないか?チャットGPTの最終目的は運営企業の利潤を上げることだという基本的事実を常に念頭に置けと警告されている。利潤のためには嘘や隠し事も起こり得るのは世の常。
 ついこの間まではグーグルもフェイスブックも、インスタもツイッターも無かった。生活は回っていたのだが、今となっては膨大な情報の流れというものがもはや水や空気のように欠かせないものなのかしら。その欠かせない水や綺麗な空気は本来人間に所有権があるわけではない。この全地球上で等しく配分されるべきだろう。それが実際には水さえも市場での取引対象になっていると聞くと、ありとあらゆるものが人のお金に換算されないと気が済まない、儲けにしないでは居られないような強迫的な性向が私たちには染み付いてしまっているのか。どこかで箍が外れたような、歯車が狂ってしまったような。
 どうせそういうことなら、例えば一人がチャットGPT等に一回アクセス(利用)したらこちらが一円分の情報提供をしたと考えて、それを企業側の儲けに換算したらどうだろう。一年間で総額にしたら相当なものになるのでは。その額も課税対象にしたらいいのでは。しかしどこの国の課税対象になるのかを決めるのは難しいだろう。グローバル企業であるからして国連に納める事にしたらどうだろう、と妄想。
 囲碁や将棋、チェスのように一定の規則が明確なものは人工知能との相性が良いのだそうだ。AIの学習の進歩が早く、勝負で人間が負けることも起きた。ある新聞の記事によると囲碁や将棋のトップ棋士がAIで覚えた形を使おうとする時、そこにはすでに答えが出ているわけだが、うろ覚えで間違ってしまうことがあるそうだ。本来の自分の指し手ではないと。藤井聡太はそれについて、AIの手順そのものを覚えるというより局面ごとの認識を深めることが重要と考えているそうだ。
 将棋は局面も何も、皆目わからないのでAIと俳句を考えてみる。そのうちにキーワードを入力したら機械がちゃんと意味の通る適当な俳句を作ってくれるようにはなるだろう。ハッとするような五七五が生まれるかどうかは分からないが、たまにはヒットすることもあるかもしれない。幾つも幾つも作らせて勉強してみるという手はあるかもしれない。言ってみれば検索機能に少し尾鰭のついた感じで。でも、何もいちいち機械に尋ねなくても毎月の「橡」を読めば良いではないか。文字で勉強するなら他にも読むものはたくさんある。
 四月の初め、どうする家康人気に沸く岡崎城公園を吟行した。今年の桜は開花が早くすでに終わりかと期待せずにいたが、駅を出ると川堤は思いの外の花盛り。青空と暖かな風。地元の材で作られた広い白木の橋を渡る。十一年前の吟行の時には無かった橋だ。今日は総勢七名。あの日は確か二十名ほど。すでに会えなくなった人たちの顔を思い浮かべる。あれは花冷えの寒い日ではあったけれど、心弾む一日だった。今日は菜の花も満開。どこからか鶯が音を添える。各自散らばって散策した園内で緋連雀の群に出会う。大きな望遠カメラを抱えた女性が、今は好物の寄生木の実は終わり、蔦の実を啄ばみに来ているのだと教えてくれる。じきに北へ向かうそうだ。みゃあみゃあとちょっと寂しげな猫のような鳴き声。天守閣からの眺めは街並みばかりで我が家のアパートメントの屋上からの眺めとあまり変わらないが、見下ろす楠の若葉が前回も印象深かったことを思い出した。眼前の景、音、匂い、諸々と遠い記憶とが絡み合いながら、再びインプットされる。この言葉以前のものを言葉にしていくのが俳句だろう。






 

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