橡の木の下で

俳句と共に

草稿10/31

2009-10-31 03:53:06 | 一日一句
窓の灯の明し夜学の文化祭  亜紀子

夜間定時制の公立高校の不合格者数が増加。
中学卒業後の進学の最後の機会、砦といわれるが。

草稿10/29

2009-10-29 10:18:36 | 一日一句
八千草の門べ近況告げにくる  亜紀子

ふた月に一度か二度話に来る娘さんが家庭を持たれて
この度引っ越されるという報告にいらした。
この先、またお目にかかる機会もそうはないかもしれない。
そのような交流ではある。
草の花、可憐で強く、
いつも笑顔の絶えないお嬢さんである。

「橡」平成21年11月号より

2009-10-28 10:04:06 | 俳句とエッセイ
「剣のはなし」          

 男の子が七歳になる春に何か習い事をと考えていたところ、たまたま剣道を勧めてくださる方があった。子どもに人気のサッカーや野球は居ながらにしていくつかのスポーツクラブの勧誘のチラシを目にしていたが、剣道クラブは思いつかなかった。競争相手の少ないものの方が頭角を現す可能性が高いのではと親ばかちゃんりんで、当の本人はわけも分からぬ間に毎週日曜の朝は道場に通うことになった。保護者は稽古の間は正座で待っていなければならない。いっそ一緒に習ってしまおうと、いい歳をして子どもに混じって稽古を始めてちょうど6年目になる。
 素直の子が伸びるとはよく言われる。指摘された間違いをその場ですぐ直そうとする子は上達が早い。当たり前かもしれないが、素直という言葉には含蓄がある。先人の経験から結果の出ているものには真実があり、素直にとはこの真実を自分で理解していくことだろうと思う。実際はとにもかくにも言われた通りに体を動かし、それが出来るようになると自然に真実が身に付いていたという感じである。
 無駄な力を抜く、これもよく言われる。初心のうちは肩に力が入る。力一杯では剣が出せない。余分な緊張を解いて緩急自在、ここぞで発揮できるようになると体力温存、持久戦にも耐えられる。言うは易しで、いつまでたってもこの加減が難しい。
 足が大切、つい忘れておろそかになるのが足許である。腕の振りよりも先ず足運びが大事だと言われる。丹田に力を入れる。腰を据える。足の運びは腕の振り下ろしと同期して滑らかに。常に相手の正面をとって、体がぶれないように。足が捌けなければ剣をタイミングよく打ち出す事はできない。上手は足捌きが美しい。立ち姿からしてひと味違う。ある年の寒稽古でのこと、若い上段者の素足が冷たい床に滑るとも舞うとも見えて、思わず惚れ惚れした。また八十路も越えられた先生がたの足運びはちょうど能役者のそれのように見える。
 見取り稽古。今風にいえばビデオで動きを研究するということになろうか。他人の剣を観察して覚える方法である。これが思いがけず有効で、見ているだけでも何がしか上達できる。稽古をつけてもらう際に待ち時間がある。この間が見取り稽古の時間になる。漫然とではなく、自分の身になるように観察するわけだ。これはと思うところがあれば、自分の番のときに試してみる。
 練習に工夫をすること。自分なりの工夫がある。家で素振りをするときには剣先にいくらか重りを付けている。しばらくすると、普段使いの竹刀が軽く感じられるようになる。それから指摘を受けた点を忘れないうちに小さなメモに残している。数年続けたところ、結局何回となく同じ点を注意されていて、未だに変われないことが分かった。
 さて、真面目に練習に打ち込んではいたけれど、息子の上達には追いつかない。何とかの冷や水と冷やかされるばかりである。寄る年波に体調を崩すこともあり、家事に追われてさぼってしまうこともある。そのかわり図々しさは格段に進歩した。始めたばかりは胴着と袴姿が気恥ずかしく思えたものだが、そのうちにその格好で自転車に乗り、ご近所の庭の草花を季節ごとに冷やかしたり、あげくモダンなピッツァ屋に寄ってお昼の持ち帰りを頼むようになった。これは子どもの不評を買うが、なにごとかに打ち込むにはなり振りかまわぬことも大切とうそぶいている。
 究極楽しみである。思う通りに少しでも動けるようになるとき。ほんの瑣細な進展のあとを感じられるとき。日頃の憂さを忘れて汗を流したとき。先生や道場のお仲間や子どもたち、あるいは手助けをしてくださる父兄との気軽な交流。楽しみが見いだされぬものなら長続きはしないだろう。
 武道は精神修養の道といわれる。その通りなのだろうが、私自身を振り返ると、いまはただ練習、練習のみ。もしさらに長く続けられたならば、いつの日か自然のうちに、いくらかでも精神的境地に至れれば有り難いと思うのである。
                                                    亜紀子