橡の木の下で

俳句と共に

「梅雨明け」平成24年『橡』9月号より

2012-08-26 10:00:04 | 俳句とエッセイ

   梅雨明け      亜紀子

 

 今夏は梅雨の終り頃から小さな虫に悩まされている。ハダニである。最初は芥子粒よりも小さい埃のようなこの虫の正体が分からなかった。東京から戻り、しばらく家で休養していた娘が食卓で本を読んでいると、繰った頁にいつの間にか黒い虫が付いていて気味悪がった。私にはゴミ粒にしか見えぬのだが、手足が付いていて確かに動いているという。衣魚の仲間だろうか。

 各地に被害をもたらした豪雨の後、梅雨が明け、一転連日の猛暑となる。それまでは紙の上に見かけるだけであった小虫が屋内のいたるところに出てくるようになった。床、棚の上、台所の調理台、浴室。ある晩には息子が悲鳴をあげるので何事かと行ってみれば、寝室のシーツの上が振りかけを撒いたような有り様であった。拭いても掃除機で吸っても追いつかない。夕食のとき、箸をつけようとした皿の上を歩いているのには閉口した。一体何者でどこから湧いてくるのだろうか。

 家の外壁に巡らした蔦の葉が精気を失っている。酷暑のせいかと思っていた。よく見てみるとここに虫が付いている。何のことはない、普通のハダニであった。これが網戸やその他の隙間から家の中に侵入するのだろう。ハダニの英名はスパイダー・マイト、昆虫ではなく蜘蛛の仲間だそうだ。植物に寄生して葉の汁を吸う。水を嫌い、乾燥を好むので、室内の観葉植物やハウス栽培の農作物の害虫だ。雨の当りにくい軒の家蔦も良い繁殖場所なのだろう。雌一匹で単為生殖するその増殖力は相当高いようだ。梅雨明け宣言とともに大発生したのも宜なるかなである。低所から高所へ登る性質があるそうで、食堂の天上を歩いているのはこの性質に由るものか。そうして上から降ってくるのだろう。天敵はカメムシらしい。そういわれると今年はカメムシも増えている。しかしカメムシに退治してもらうのではとてもとても間に合いそうにない。

 ところが人間というのは案外何でも慣れるもので、家に居る時間の長かった私とくだんの娘は小虫が気にならなくなってしまった。仕方がないから虫は無視しましょう、冬になれば消えるわよと。潰れると黄緑色の跡がつく。完全に草食のようであるから、仮に口に入ってもレタスのサラダを食べるのとそう変わらないだろう。害があるとも思えない。

 私の目には虫眼鏡をかざして見ても詳細な形の認識ができない。娘がスマートフォンのカメラで撮影し、その拡大機能を使って画像を指で押し広げて、驚嘆する。ぷりぷり太った楕円の体に、一見触覚のように長い二本の前肢、残りの三本ずつ対の足。赤黒い体色。まるで怪獣だ。やっぱり、少し気持ちが悪い。

 その後娘は近所の保育園に仕事を得て、日中のハダニ攻撃は免れた、思い付きで、仕事から戻ってくる彼女と二人で夕食を取る日には、部屋の蛍光灯を消すことにする。代りに卓上に小さなダイオードのランプを立てる。以前、スウェーデンの家庭では夕食は燭台を立て蝋燭の明りでとると聞いた。北国の、しらじらと暮れることのない白夜の窓辺、あるいは長く冷たい冬の夜の暖炉のほとり、晩餐の蝋燭の色はいかにも相応しい気がする。

 さて我がダイオードの晩餐もなかなか趣がある。仄かに照らさし出される手もとの料理は普段より美味しそうだ。細かな表情は見えないが、話し声は却って鮮明に響いてくる。子供が小さかった頃のキャンプの晩の丸太のテーブルを思い出す。それより何より見ぬもの潔し、体長0・5ミリの虫は暗い陰の中に溶けてしまう。娘が手伝っている三歳未満の乳幼児の部屋。その日の子どもたちとのやり取り、赤ん坊のおむつ替えのコツ、失敗、発見、あれこれを聞く。どこか離れ住む孫の話を聞く心持ちというべきか。「私は笑いの壺が子どもと一緒、雨の日に一緒に並んで外を眺めていて飽きることがない」という娘が先生と呼ばれる面白さ。良い場所を見つけたねと言えば、良い所だわと。蝋燭の炎であれば小さな吐息に揺らめくのであろうが、ダイオードの光は静かに落ち着いて瞬くこともない。