橡の木の下で

俳句と共に

選後鑑賞平成24年『橡』9月号より

2012-08-26 10:00:02 | 俳句とエッセイ

橡九月号・選後鑑賞      亜紀子

 

みのかぎり萌え立つみどり草千里 小笠原喜美子

 

 阿蘇五岳のなか烏帽子岳の中腹には広大な草原が広がっている。阿蘇観光の要である。私が子どもと二人で訪れたときはもはや秋草も衰えた、やや寂しい佇まいであった。掲句は今まさに若々しい緑一色。上五から中七の全ての言葉の斡旋が、草千里という固有名詞に収斂し、さらにそこから空間が広がり続けるような印象。良い時期、良い景に出会われた。

 

ジューンベリー熟れどき待てる夏の鵙 田中めぐみ

 

 鵙と聞くと先ず早贄の習性を思い出す。また晩秋から冬の初めのもの寂しい景色の中、独り梢であたりを睥睨しているような姿。突然けたたましく響く鋭声に我に返る。鵙は肉食性という思い込み。しかし実際には木の実など植物性の食物も採るようだ。観察者の記録によると動物性の餌の少ない寒い時期に、例えばナンキンハゼの実を食べるというような記事が多いようである。さらに観察を続けていると、掲句のように夏場の美味しい木の実をあえて選んで食べに来るという生態も見えてくるのだろう。

 ジューンベリーはその名のとおり六月頃実が熟す北米原産のバラ科の果樹。カナダでは産地の草原の町の名に因み、サスカトゥーンと呼ばれ、時期になるとジャムやジュースにして好まれている。我が国でも庭木や街路樹として人気が出ているそうだ。

 鵙は体色美しく、歌声も時に複雑、軽やかである。物真似もやる。枯木や夕焼けのなかだけでない、夏鵙の実態を詠って面白い句になった。調べがもう一工夫できるかもしれない。

 

落人村河鹿のこゑに明け暮るる  古屋喜九子

 

 ここも平家の落人伝説の村だろうか。そう聞いただけで人里離れた、青葉が陰する谷間の小さな集落が想像される。その昔、椀が川下に流れて行ったであろう渓流は今も清冽。明け暮るるの語に、作者の関心はこの隠れ里に暮らす人々の日々のたつきに向かうのが知られる。一日中、BGMのように途絶えることのない河鹿笛を耳にして、羨ましくも思うのである。

 

嘴で打ち巣箱確かむ四十雀    後藤久子

 

 四十雀は樹木の洞や、石垣の隙間など、もともとある洞穴を使って営巣する。それゆえ巣箱をかけてやれば街中でも繁殖し、近年は都市にも増えている。我が家でも営巣直前の春先や、涼しさの戻った移動の秋口、良い声で庭先を通り過ぎて行く。掲句の四十雀は周囲を伺いながら巣箱の具合を嘴で叩いて確認する様子。ハウジング会場で下見をする人間のようでもある。物陰で観ていた作者はすぐさま一句に作り上げたのだろう。

 

スー・チー氏梯梧の花を髪に挿す 馬詰圭子

 

 アウンサンスーチー女史。ミャンマーの非暴力民主化運動の指導者、長い軟禁生活を漸く解かれ、二十一年ぶりにオスロでのノーベル平和賞受賞演説を実現した。喜びと感謝とともに、未だ囚われている無名の良心の囚人の開放、人間性の正負の両面を見つめつつも人類の幸福と世界の平和への絶え間ない努力を訴え、人としての思いやりの価値を説いた。

 このスーチーさんが掲句のように五七五に詠まれて驚く。一節によると彼女がいつも髪に挿している花は軟禁中に会うことなく亡くなった英国人の夫君と、かつて誕生日に送り合った花だという。蘭という人もいれば、ジャスミンと書かれているものもある。梯梧がいかにも相応しく感じられたのは以前流行った「島唄」の歌詞が無意識に脳裏を過ったせいかもしれない。

魚市のべらの虹色雨あがる    左海和子

 

 どこか南国の海辺の風景。魚市場に体色虹色のべらが並ぶ。この地方特有の驟雨があがり、空にも虹が架かりそうな。一読、奄美の自然を描いた田中一村の魚の絵を彷彿。

 

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