橡の木の下で

俳句と共に

「綾渡の夜念仏」平成25年『橡』10月号より

2013-09-27 08:26:12 | 俳句とエッセイ

  綾渡の夜念仏   亜紀子

 

 八月、句会の折に伊與さんから綾渡の夜念仏と盆踊りの紹介があった。愛知県豊田市綾渡町、旧足助町綾渡地区で行われる盆の行事である。広域行政化が進み、市町村合併で自動車の町豊田に併合された足助町は、豊田からはだいぶん山間に入った緑深い谷間にある。綾渡集落はさらに山奥になるらしい。以前に訪れたことのある伊與さんの説明によると、日が沈み、周囲には一切灯りのない真の闇の中、男衆が念仏を唱えて歩く。念仏の後、村内の平勝寺の境内で盆踊りがあるが、そこには櫓も太鼓もスピーカーもない。音頭取りの唄い手に合せてただ黙々と踊るのだという。曰く「実に陰々滅々たるものです。」しかし貴重な行事であり、良い俳句の材料になる由。時間の許す方は是非一度ご覧あれとのことであった。

 夜念仏とは、そもそもはその年に亡くなった新仏のある家々を回り念仏回向を手向け、余興として盆踊りを踊ったものと書かれている。かつては三河山間部から岐阜にかけて広く行われていたが、現在では全国的にみても綾渡に残るのみという。昔は地域の青年の行事で、練習を含め旧暦七月一日から十七日にわたったとのこと。若者の減少で若連中のみでは維持が難しくなり、昭和三五年に保存会結成。新仏の家を回ることもなくなり、現在は八月十日、十五日の二回、曹洞宗の古刹平勝寺での回向を行っているそうだ。ほどなくして伊與さんから電話があり、十五日の夜念仏に誘っていただく。石橋さんが車を出して私を拾ってくださり、豊田で伊與さん夫妻を乗せ道案内をお願いすることとなった。

 名古屋は連日気温三五度を記録、盆の中日も朝から暑い。昼過ぎに名古屋を出て豊田へ。石橋さんも久しぶりの道とのことでナビ頼りに進む。豊田は自動車産業の財源を背景に良い道路が走り、立派な公共施設が完備された田園都市である。周辺の自然が残っていて、伊與夫妻の毎日の散歩コースという田の畦道には雉子だの狸だの出没するという。早稲と晩生の田の面が色を違え、風が渡って行った。

 目指す足助町は巴川から分岐した足助川に沿う中馬街道の宿場で、小さいながらも山の上に城をいただく城下町である。その昔は塩の道の足助宿として栄えたそうだ。古いものが遺っている。春は古雛を飾り、盆には街道に燭を灯す。また、巴川香嵐渓は浅春の片栗群落、錦秋の紅葉で名高く、町おこしが盛ん。八月の渓谷の緑はなだれ下って川面に影を落とし、その水の真中に腰まで浸かった鮎釣が並んでいる。

 町内の人たちは綾渡の念仏について尋ねても詳しく知る人はいないようであった。綾渡は足助の山城を越えてなお奥深く、すれ違いのできぬ九十九折れの山路の果てにあった。念仏の始まる午後七時にはまだ間がある。平勝寺は杉の巨木を擁し、堂々とした構えである。蜩が鳴く。田蛙の唄。蜻蛉が飛び交う風に移ろいの季を感じる。辺りが翳り句帖の文字が判別できなくなった頃、大木を背凭れにしていた私の回りを一匹の蜂がしきりに飛び回る。はたと思いついてそこを離れると、蜂は木の割目にすっと入りそれきりになった。

 上弦の月が明るみ、境内の灯りが消され念仏が始まる。小さな燭が並べられた門前の畦道を、十六、七人の念仏衆が鉦を鳴らし進んでくる。回向は辻、山門、観音堂前、氏神前、最後に本堂前で行われる。黙々と唱える念仏に黙々と聞き入る。闇の中、笠の下の顔はさらに闇深く、低く響く唱名と鉦の音は永遠に続くかのように思える。傍で村の人とおぼしき男性が話しているのを立ち聞く。国の指定重要無形民俗文化財である夜念仏を二十数戸のこの村で保存維持していくのは、正直辛い。しかし、実際に念仏を唱えていると、身近に亡くした人のある年には自然に涙が湧いて出て何ともいわれぬ心持ちになる、云々。

 念仏が終り、盆踊りを一、二曲見てから帰路につく。灯りのない山道を一曲がり下れば踊唄はもはや届かず、山峡を照らす月が一つあるのみ。小さな集落で続けられてきた保存の努力に思いを馳せる。保存に努めて来た時間が今日を在らしめている。真実はその時間にある。折しも八月十五日だ。今日一日を振り返り、今日一日の平穏が明日も保証されることを願う。得体の知れぬ、実体のない脅威に踊らされることなく、本当の力とは何かを見据え、この平和を恒久たらしめる努力を考える。