橡の木の下で

俳句と共に

「実地に」平成27年「橡」2月号より

2015-01-28 15:21:54 | 俳句とエッセイ

  実地に       亜紀子

 

 「何より先ず、精神そのものを実際に示すにしくはなし。クリスチャンの教会においてはー神の心そのものを説きなさい。そして是非どうしても必要なときに、言葉で説明しなさい。ーという格言がある。」

 

 これは私が参加させてもらっているボランティアグループの普及・進展に関しての言である。この言葉をくれたのは医療、教育、職場、あるいは様々の問題を抱えた人々の支援組織の現場に浸透し始めている、動機づけ面接と呼ばれる面接技法の創始者である。彼は宣教師でもあるが、私には信心はないのでクリスチャンの教義の伝播の話ではない。グループの活動や面接技法についても俳句には直接拘わらぬことゆえ割愛する。ここに言われているのは、ことの本質が言葉による説得ではなく、現実の行動を示すことで、自然のうちに、相手の自発的な理解によって伝わるということかと思う。

 

 俳句の世界に置き換え、俳句を語り、伝えようとするなら、

 

目のさめるような句をまつ浮いてこい   星眠

 

主宰のこの投げかけに応えることが第一義で、その先も後もないように思われる。ことが絵画や音楽であれば、現実に目の覚めるような作品が示されなければ伝えることができないのは尤もなことで分かり易い。俳句は俳句自体が言葉であるので些かややこしい。後から説明、解説を押っつけることができるからだ。俳句が言葉以外の何者でもないことは確かである。以前に主宰が「俳句は理屈でなく、情ですよ」と言ったという話を読んだ。理屈は日常的な言葉で語られ、俳句はそれとは少し異なる言葉で成り立つというように解している。少し異なる言葉とは「詩」であり、では詩とは何だと問われれば詩そのものを見せるのが一番早く確実な方法になるわけだ。

 正岡子規が『墨汁一滴』に次のように書いている。

「先日短歌会にて、最も善き歌は誰にも解せらるべき平易なる者なりと、ある人は主張せしに、歌は善き歌になるに従ひいよいよこれを解する人少き者なりと、他の人これに反対し遂に一場の議論となりたりと。愚かなる人々の議論かな。文学上の空論は又しても無用の事なるべし。何とて実地につきて論ぜざるぞ。先づ最も善きといふ実地の歌を挙げよ。その歌の選択恐らくは両者一致せざるべきなり。歌の選択既に異にして枝葉の論を為したりとて何の用にか立つべき。蛙は赤きものか青きものかを論ずる前に先づ蛙とはどんな動物をいふかを定むるが議論の順序なり。田の蛙も木の蛙も共に蛙の部に属すべきものならば赤き蛙も青き蛙も両方共にあるべし。我は解しやすきにも善き歌あり解し難きにも善き歌ありと思ふは如何に。」ここでも実地ということが要である。

 人にものを伝えるといえば即ち言葉が思い浮かび、どのように言葉を上手く使うかが問題とされる。しかし本当のところ、実地に依る、実物を示すということが詩に限らず何を伝えるにしてもコミュニケーションの根幹になっているようにも感じられる。言葉に頼らずとも、他人との間に何かしらの意識の交流に拘わるものがあれば、それは全てコミュニケーションになるのであるから。

 さてここまで私は結局言葉を弄していることに気付かされる。何かの折りに良寛の自戒「言葉の多き」について教えてくれた会員の方がある。主宰も俳句を語るときはいつも言葉少なである。余計な批評をしないのは馬酔木時代から変わらない。それよりも「浮いてこい」の句のような目のさめる作品を示す。目は覚まされるのだけれど、目を覚ますことのできる句を詠むことは難しい。到達し難い目標、終りのない道程である。