なかなか釣りに行けない

なかなか実釣出来ず、稀の釣行を夢見て、机上の空論を重ねる備忘録です。

新しい方向2(20240722)

2024年07月22日 21時47分05秒 | 日記

新しい方向2(20240722)

震災前と同じ日常に戻り、ふと思った。
自然の中で過ごした12年は大事な経験だったと。
五感のすべてが私を養う感覚、それはディスクワークや通常業務では体験できなかった。
もちろんその12年間で仕事上の業績は犠牲になったけれど、その分、私生活は充実した。
アルコールを止め、いろんなことを考え、一定の感覚を持つようになった。
それは実生活で役に立ち、震災前に比べて信じられないような進歩だった。
で、その状態で震災前と同じ生活に戻る。
目の前にあるのはPC画面とデータの山。
今の私の日常は、視覚と触覚だけの現実で、過去の追憶と未来の予測を往ったり来たりしている。
とはいえ自然界でも、五感に任せる今この瞬間の判断に、過去と未来を重ね合わせるのが常。
そう考えれば、バーチャルな視覚触覚だけの日常でも、今この瞬間の判断へ過去と未来を重ね合わせることは、自然界と何ら変わりない。
PC画面の前でも自然の中でも、実は同じだ。
つまり、全ての感覚に身を委ねながら、新しい選択を次々成していく。
岩清水を渡るかPCの前に座るかの違いしかなく、内面での作業はほぼ同じ。
今この瞬間に、新しい選択をし続ける。
私の新しい方向性。

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備忘録と新しい方向1(20240722)

2024年07月22日 12時42分30秒 | 日記

備忘録と新しい方向1(20240722)

395号「「どっこいしょ」は六根清浄(白山開山1300年によせて)」
白山比咩神社HPより
https://www.shirayama.or.jp/kouwa/k395.html
曰く
「六根清浄とは、六根つまり人間の知覚である眼・耳・鼻・舌・身・意(心)のことで視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五感に心を加え、穢れにふれた時に神徳を以て清浄に保って救いを求めようとする祈願詞であります。
単純にいえば、見たり聞いたり、嗅いだり、味わったり、喋ったりするうえで生じる得体の知れない欲望を清らかに浄化し、あるいは捨て去ってしまおうと願って、山に登拝するときに「懺悔 懺悔 六根清浄 白山妙理大権現」と唱えたのであります。
六根は仏教語では、六境(色・声・香・味・触・法)と合わせて十二境といい、更に眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識を加えて十八界と称しています。
山野を歩き続け、短い休憩を取る段になって腰掛ける時など、力を入れるときとか重い荷物を持つときに勢いをつけるために知らず知らずのうちに「どっこいしょ」と発しながら行動に移しますが、この「どっこいしょ」は一説には「何処へ」という言葉が元だと言われていますが、山岳仏教の行者が唱える「六根清浄」が語源となっているという説もあるそうです。」

六根:眼・耳・鼻・舌・身・意(心)
https://dictionary.goo.ne.jp/word/六根/#jn-236871
六境:色・声・香・味・触・法
https://dictionary.goo.ne.jp/word/六境/#jn-236834
六識:眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識
https://dictionary.goo.ne.jp/word/六識/#jn-236439

この六根六境六識の6番目、意(心)・法・意識がヒトとその他の野生動物を分ける境界。
もちろん野生動物にも意(心)・法・意識はあるけれど、その中心器官である大脳皮質の表面積がヒトではズバ抜けて、それがヒトとその他の動物を峻別する。
荒れ狂う大河川に橋を掛け堤防を補修し続けるのは、この大自然でヒトしか出来ないことだから。
私たちの五感(眼・耳・鼻・舌・身、色・声・香・味・触、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)と6番目の意(心)・法・意識が、相和すれば良い、ということになる。
まあ普通はここに葛藤はないけれど一般的に。

新しい方向、なら、その瞬間の時の流れに任せてしまう、もう全部。
もちろん過去の思い出や未来の展望もあるけれど、その瞬間に指し示す羅針盤が、過去や未来ではなく、この今の流れの向くまま、で良いのかもしれない。
なのに過去を想い未来を案じ今の羅針盤に迷うくらいなら、もう思い切って、今の流れのまま、まっすぐ前を向けば良い。
出来ないこと諦めることは山のようにあるだろうけれど、限られた今の瞬間に出来ることの方が圧倒的に少ない、いや無いと考えるべき。
はじめから何も出来ない今この瞬間に「あれもやりたいこれもしたい」「でもあれも出来ないこれも出来なかった」と過去と未来を悔やみ過ごすのは、あまりに愚か。
どうせ何も出来ない今この瞬間、この眼の前にあることだけに集中し取り掛かれば良い。
目指すは直近の完成形であり、それは樹の枝を払うとか樹を切り倒すとかであって、大河に掛かる完成した橋の姿ではない。
まずは今出来ることを確実に完成させ続けてはじめて、大河の橋に至る。
しかも大河の橋など一人では到底むり、多くのヒトたちと力合わせて成し遂げるもの。
それを一人でやろうとするなど、本当に愚か。
まずは眼の前のことを確実にこなし続ける。
その結果、大河の橋が掛かるか否かは、まだ誰も知らない。
いや誰も知り得ない。
だからこそ今この瞬間、コツコツ眼の前のことをこなす以外なし。
あの巨大なハチの巣アリ塚だって、一日では成らず。
いわんや大河の大橋をや、そんな気持ちが今は大切。

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月曜朝(20240722)

2024年07月22日 07時25分50秒 | 日記

月曜朝(20240722)

5時起床、6時45分発、7時前着、今日は市街地経由にて。
早く着きたかったからの選択、山路に気を引かれながら。

コロナや水害で九州の本流釣りは大きく変わった。
それもあり、2023年頃から方向転換を模索した。
結局、もとの仕事人間に戻るだけかもしれないけれど。
でもそれだとつまらない。
これまでの12年間がもったいない。

方向転換のゆくえは、ぼんやりとわかっている気がする。
ただまだ言葉で表現できない、名前を付けられずにいる。
何だろう、ついそこまで見えている気がするのだけれど。

そんなことを考えていたら、あっという間に着いてしまった。

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