明鏡止水か止水明鏡か(20240706)
釣りをしていると、風がなく凪いで波ひとつない美しい水面に出会うことがある。
澄んだ水の下、水藻の間を魚が通っていく。
どこまでも澄んだ水面をずっと向こうまで見通すと、その水面に、対岸の空と雲と光と山々が逆さに映り、まるで鏡そのもの。
気づくと水底の魚の向こうに私まで映り込んでいる。
静かに流れの止まった水面が、まるで明るい鏡の様に作用している。
そんな場をいくつか見ていると、4文字熟語「明鏡止水」をつい「止水明鏡」と読み違えてしまう。
明るい鏡は凪いだ水面のよう、というより、凪いだ水面が明るい鏡のようだ、と解釈した方が、よりシックリくる。
でもこれは釣人だから、そう感じるのかもしれない。
調べてみると、「明鏡止水」については下記。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/明鏡止水/
意味は「邪念がなく、澄み切って落ち着いた心の形容」とある。
その対義語が「意馬心猿」。
意味は「煩悩ぼんのうや情欲・妄念のために、心が混乱して落ち着かないたとえ。
また、心に起こる欲望や心の乱れを押さえることができないたとえ。
心が、走り回る馬や騒ぎ立てる野猿のように落ち着かない意から。」とある。
その一方で「止水明鏡」を調べると、これがなかなか見つからない。
先の「意馬心猿」は逆に並べて「心猿意馬」ともいうらしいから、あってもよさそうなのに。
で、ようやく見つかり、それが寺田寅彦先生の著作「「手首」の問題」だった。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2466_11123.html
止水明鏡のごとくにあらゆるものの姿をその有りのままに写すことができなければならない。
これこれ!
かの寺田寅彦先生が釣り人だったか分からないけれど、「半日ある記」に少年の釣りの様子が記してあるので、全く無関心ではなかったらしい。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/24404_15381.html
とすると、明鏡止水を止水明鏡と読み替えたのも、無理矢理だけれど、納得できる。
でも、鏡のように美しい水は心も照らす、となるかどうか。
そこは、深読みしすぎかもしれない。