Nonsection Radical

撮影と本の空間

無駄な事ばかり

2010年03月31日 | Weblog
某月某日
明日からsatoboの住む田舎都市が政令指定都市というのになる。
住んでいる人間にとっては何も良い事は語られない。
役人が自分たちで出来る事が増えて大喜びのようだ。
役人の最大の楽しみは予算を使う事で、政令指定都市になると県からの移行で執行出来る予算が増えるようなのだ。
かわりに県で負担していた事も市で行なう事になる。
そのための費用がかなりの額になると言うが、それについてはウヤムヤ言うだけ。
目先が使えるお金ばかりに向いている事がわかる。

「区」というものが新たに作られ、「中央」「緑」「南」の3区が出来る。
このセンスのない区名に市の特徴が現れている。
住所表記が変わってしまうが、satoboの住む田舎地区では何丁目何番地という表記がまだされておらずバラバラの場所に番地が飛んだまま。
1354の隣が1315とか・・・
また郵便番号も変わってしまう。
変わる理由がわからないが、どうやら新しくつけたかっただけのようだ。
郵便番号、住所表記が変わったために色々な場所に住所変更の届けを出さないとならない。この手間は住民の負担。
何のために自治体があるのか役人はわかっているのか?
答えは、役人の生活のため(ため息)
コメント (2)
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秋田で忘れる

2010年03月30日 | Weblog
某月某日
さて日記を書こうとしたが、タムタムさんの書き込みを見てユーチューブで秋田弁を聴いたりお色気替え歌(たぶん)を聴いたりして、リンクにあった桜田淳子などを見ていたら、何を書こうとしたのかすっかり忘れてしまった。
帰宅した時には覚えていて、新聞の警視庁公安部長の負け惜しみ会見を読んでも、話題を変えるほどでないと思ったほどだったが、肝心の内容がとんと思い出せない。
かなり面白そうな話題であったと思うのだが、その片鱗さえも出てこない。
まいったなぁ。
のどに刺さった魚の骨をそのままに、更に御飯を食べようと思っても気になって食べる事が出来ない。そんな感じだ。
だから新たな話題も湧いてこずに、今夜はこれにて退散。
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夜空の下で

2010年03月29日 | Weblog
某月某日
いつものように長い残業を済ませてお外に出ると、夜空は澄み渡り星が瞬いていた。
そのかわり冷たい風が吹き、真冬の寒さだ。
バス停に着いた時にはバスは発車していた。
次のバスまで20分も待たなければならない。
刺すように冷たい風の下、じっと待ち続ける元気はない。
まわりにオデンの屋台や夜鳴きそば、夜鷹がいないのは江戸時代ではないからだ。
仕方がないので駅まで歩く事にした。
路線沿いを歩いて、バスが来たら乗る事にして早足で歩く。
モミジのオテテはすぐに寒さで感覚がなくなり、手袋をしてポケットに突っ込み、中でグーをして暖かくなるのを待つ。
久しぶりに火を入れたハクキン懐炉は、会社を出た時に燃料が切れた。

次の停留所に着いたがバスはまだ来ない。
次の停留所を目指す。
寒さでアキレス腱が痛くなって来た。
次のバス停では、あと8分後にバスが来る事になっている。
当然歩く。
ここで気になるのはバスより次に乗る電車の時刻だ。
のんびり歩いていたら電車に乗り遅れる可能性がある。
乗り遅れると寒さに振るえ20分以上待たなければならない、
E電(死語)のように数分おきに到着する都会とは大違いだ。
次の停留所でもバスはまだ来ない。
その先は駅である。
当然小走りに歩く。
幸いな事に駅に着いた時にまだ電車は来ていなかった。
駅の改札に向かった時に、乗るはずであったバスがやって来た。
「ガッツ!」と小さく叫び改札を通った。
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愛の狩人

2010年03月28日 | Weblog
某月某日
懐かしい曲が探したらあった。
よく唄っていたなぁあの頃。
satoboの高尚な趣味がよくわかるでしょ。



コメント (8)
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約束

2010年03月27日 | Weblog
某月某日
先日の上海君さんの写真展で紹介された小林弘人さんが参加する写真展に行ってきた。
お逢いした時に「見に行きます」と言ったのは、小林さんに興味を抱いたからで、お為ごかしに言ったわけではない。
よくこういう場合に、「行きます」とか、中には「ぜひ行きます」などとその場では言いながら、実際には行かない人がいる。
お人好しのsatoboはそんな言葉を真に受けて、待てど暮らせど誰一人来ないという事があったので、自分では確約出来ない事は言わないと決めている。
それがその場ではイヤな雰囲気を作ったとしても、最終的にもっとイヤな気持ちにさせないと思うのだ。
もちろん来てくださいという人は、多くの人に声をかけ、そのみんながみんな来てくれるとは思っていない事は承知している。
小林さんも同様にたくさんの人に声をかけ、行きますと言う返事をもらっている事だろうと想像する。
それでもみんなが来てくれるとは思っていないはずだ、お人好しのsatoboと違って。
でも、satoboは行くと返事したからには余程の事がない限り行くので、今回もお邪魔した。
行って良かった。
小林さんもsatoboの事を覚えていてくださり、作品についての話もしてくださった。
また先生である渡部さとるさんも気楽に話をしてくださった。
そこで感じた事なのだが、小林さんの写真も含めてだが、急激なデジタル化が大衆化してきて、ついに新しい動きとして作品に表現されてきたのだ。
もちろん「プロ」の中ではこれまでもイメージを創り込むという作品は一部にあったのだけど、「アマ」ではまだ現実を切り取るという写真が大部分を占めていた。
それがデジタル化の恩恵で、イメージを写真として創り出す行為が広がってきたのだ。
たとえばsatoboの好きな版画や絵画の世界では、とっくにイメージの世界である。
作者の頭の中にあるイメージを「絵」として形にする。
それを見る側は楽しむのだ。
それを美大生ぐらいでも当然として行なっている。
そこには現実の世界と想像の世界との垣根などない。
その事に対する躊躇も葛藤もない。
当然の世界なのだ。
それに対してまだ写真の世界では、現実に対する執着があるようで、想像の世界が「大衆化」してはいなかった。
しかしどうやら変わってきたようだ。
これは良いとか悪いとか、好きとか嫌いとかの問題ではなく、新たな世界が広がってきたのだ。
特にデジタルカメラしか使った事がない世代からは、その特性を表現に利用してイメージを創る人が現れてきているようだ。
もちろんこれでフィルムカメラの創る写真がダメになるのではない事は当然だ。
世界が広がったと見るべきなのだ。
今回の写真展でもみんながイメージの世界に走っているわけではない。
ほとんどが現実を切り出す世界だ。
一部でその世界を踏み越える(飛び出す)人が現れたという事だ。
この事を渡部さとるさんもキチンと認識し、柔軟な対応をしている事に感心した。
もっと多くの人がそうした世界に出現してくれれば、写真ももっと楽しいものとなるだろうと見る側は期待する。
コメント (2)
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