Nonsection Radical

撮影と本の空間

管理不能

2017年10月31日 | Weblog
仕事ばかりの生活で、必要なことさえも満足にできない。
こんな生活は嫌だけど、生活のためには働かざるを得ない。
いよいよ積読タワーは50階建を超え、読んでいないので内容を覚えることもなく、古本屋へ行っても果たしてすでに買ったものかどうかさえわからない。
そういう場合も、買わずに後悔するよりもと、とりあえずは買ってしまうので、後で後悔する羽目に。
6時間以上寝たいものだが、現実は週一がせいぜいで、日頃は2〜3時間睡眠の毎日。
これなら随分貯め込んだものだと思っても、悲しいかな最低賃金労働者。
たまるのは未読の古い本ばかり。



大船渡町地ノ森 2
岩手県大船渡市大船渡町地ノ森
撮影 2017年9月21日 木曜日 09時45分
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ゆとり教育 ゆとり社会

2017年10月25日 | Weblog
授業にゆとりを持たせて自発的な勉強をうながしたのが”ゆとり教育”だったが、実施した結果、勉強などせずに遊んでばかりいたバカにほとんどがなってしまったことに危機感をいだいた政府は、従来通り、あるいはより一層詰め込み教育を始めたわけだが、社会においても同じ状況になっているのではないのかね。

自民党の安倍政権が言っているのは、民主主義の国民主権だとグダグダ言うばかりで何も決まらないから、主権を国家にくださいよ(戻しなさいよ)、悪いようにはしないからさ、というものなんだけど、今度の選挙を見ていると「そうだよなぁ、ゴタゴタ、グダグダばかりで何も決まらないよなぁ」と思う人が多くて、それなら自民党に入れてハッキリ決めてもらおうかなという気持ちが結果になって現れたと思うんだよね。
安倍政権になってからというもの、大企業に対しては”ゆとり政策”を施して企業の自発的な発展を促進させようとしたんだけど、現実的には教育と同様に遊んでばかりいたのは円安によって難しいことを考えなくてもとりあえずは利益は上がっているし、リスクを負って何かを生み出そうとしても減点主義だから失敗すると叩かれるしと、しないことの言い訳ばかりが先だったからなんだろうね。
一方で、神戸製鋼や日産とか東芝みたいに、必要なことにまでお金と人をかけることをやめてしまった結果がつじつま合わせの書類作成でお茶を濁すという事務仕事だけで済ませるという体質になってしまったんだけど、それも急速に変化する社会に自社の取り組みが追いつかない、あるいは取り組まないという”効率化”の結果なのではないのかね。
とりあえずは利益は確保されるんだし。
そうやって過去の遺産で食ってきた企業社会も深層では現実に対する焦りを人々に与えるんだろうけど、今のところそれが「まだまだ大丈夫」「まだ一流」「こんなもんじゃない」という言い訳で済んでいるんだろうけど、何をするわけでもないんだからどんどんヤバくなってくると、そのうち「なんとかしろ」とまさしく他人事の声も大きくなってくることが容易に想像できるね。
自分じゃ何もできないし、何もしないけど、このままじゃ困るからなんとかしてほしい。
これが今後の日本の”ナショナリズム”になるんじゃないのかね。

そこで「任せなさい。やりましょう」というのが安倍政権の政策なわけですよ。
ただし国民主権だと決まらないので、我々がリーダーになった国家主権で行きますよ、というわけです。
まあこれまでも散々リーダー待望論などが国民の側からも出てきているわけですけど、リーダーが決めて国民が従うというような民主主義国家など現在ほとんどないんですよ。それは結局うまくいかないことがこれまでの歴史でわかっているから。
あるとしたら北朝鮮とか中国とか(笑)。
でもそこって国家主権国家じゃないですか。
そんなのは中国や朝鮮嫌いな人たちは知ってるじゃないですか。
ところがそんな嫌いな国がしているシステムを、そんな人たちが好きな安倍政権でやろうとしていることに矛盾がある(笑)
また少なくともわが国では自らがリーダーを自認するする人たちの能力はおしなべて低い。
だいたい中国やソ連(死語)なんかでも、失敗は隠蔽して書類上は成功していると見せかける”腐敗が横行して、反する声は消されたわけですよ。
なんだか今の日本も似てきてますけどね(笑)
そうやってやっぱりグズグズグダグダがどうしようもなくなって国家主権から国民主権に変わっていった歴史があるにもかかわらず、簡単に問題を解決しろとか、難しいことはわからんとかいって、もう一度主権を国民から国家に預けるからなんとかしてほしいと国民が安易に思うようになったんだからどうしようもないよな。
そんな思考で新たな製品やサービス、新しい社会のカタチなんか他の国に先駆けて生み出せるわけがないじゃない。
まさしくゆとり社会の弊害が出ているわけですよ。
きっと社会に対しても国家主導の詰め込み指導が始まりますよ、教育みたいに。
ちなみに近頃の企業不正なんかはゆとり世代が引き起こしたものではなく、その前の詰め込み世代がしでかしたものですから。
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美少女の憂鬱

2017年10月20日 | Weblog
はじめに申し上げると、まったく大きなお世話な話ですからいつものように。
通俗小説並みの話なんだけど、地方ローカル線に乗っていると寂れた無人駅から眼を見張るような美少女が乗り込んでくることがあるんですよ。
都会ではないので最先端の流行とはいかず単なる普段着なんだけど、都会の繁華街を闊歩する少女たちでさえ太刀打ちできない可憐さが車内に花開くんですよ。
一方で、その少女が今後どんな人生を歩んでいくのかと妄想すると色々思考が暴走するんですよ。
ケース1
自分の生まれ育った田舎暮らしが嫌で、小さな集落を飛び出して大都会へ進学、就職して都会の大人として生きていく。
美貌ゆえに望むものの多くが得られる可能性が高く、3高のパートナーを得て都会で暮らしていく(注 妄想だからね)。
たまに田舎に帰ることがあっても、決して良いようには言われず、ますます田舎が嫌いになってしまう。
ケース2
自分の生まれ育った田舎暮らしが好きで、ずっと生まれた場所で生きていく。
美貌ゆえに寄ってくる男は多く、選びたい放題なのだが田舎ゆえに制約も多く、すぐに噂は広がってしまう。
妬みや陰口で悪女と言われがちで、いざ結婚となると以前の”交友関係”が囁かれ、夫になる男も気苦労が絶えない。
権力やしがらみを武器に言い寄る輩によって幸せな結婚を望むには障害が多く、道を外れる可能性も高い(注 妄想だからね)

嗚呼、この少女はどんな人生を送るのだろうかと全然関係のないオッサンはローカル線に揺られながら老婆心ながら心配するんだよねぇ。



大船渡線 新月 ー 気仙沼
岩手県一関市,宮城県気仙沼市
撮影 2017年9月20日 水曜日 15時35分
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新幹線とローカル線

2017年10月14日 | Weblog
北海道にまで新幹線が届き、便利になっているように感じるけど、新幹線とは新しい幹線といういう意味なのが忘れられているようだ。
幹線を整備するのは重要なことだけど、新しい幹線の整備ばかりで従来の幹線(旧幹線?)の維持に力が注がれていないのか、新幹線を降りても”在来線”に繋がらないというなんだかなぁということも多々ある。
そうでなくても、利用客が少ない→本数が減る→利用客が減るという悪循環になるとともに、移動する楽しみも旅の一つという考えがなくなっているのも在来線が利用されなくなっている理由なのだろう。
大船渡へ行くのにも、新幹線一ノ関駅を降りて在来線で気仙沼まで”ローカル線”を使うのだけど、その途中の景色が「旅」なんだよねぇ。
山のあいだをぬって行くと集落があり駅があり、人の生活がある。
その景色が想像を膨らませるんだね。
何か有名なポイントだけが旅の目的ではあまりにもつまらない。
つまらないんだけど観光ガイドなどではそこしか紹介しない。
そのポイントだけを見て次のポイントへ移動する時間は”無駄”と思うのでは楽しさ半減ではないのか。
というか、そもそも観光ポイントをなぜわざわざ見に行くのか?
考えると不思議な気がする。
だってそれはすでにガイドやテレビなどで紹介されて知っているものではないのか。
紹介されていないもの、紹介できずにいるものを実際に見て体験するから楽しいのではないのかね。
同様に観光ポイントはそこに単独で存在するわけではないのだから、トータルで感じることが旅の楽しさなんじゃないのかと思うんだけど。
そういう点でローカル線の移動というのはゆったりとした時間を過ごせて、ゆっくりゆえに入ってくる情報が豊富で、それをどれだけ取り込めるかで楽しさの度合いが違ってくるのではないのかね。
東京観光に来た人がウロウロと都会の街を歩き回るように、地方観光に来た人もウロウロとあちこち彷徨い歩くことでその地の空気を吸い、楽しい時間が過ごせるのではないのかね。
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北へ

2017年10月06日 | Weblog
9月20日から岩手県大船渡市に向かった。
2010年1月に石巻市に行った1年後、東北に震災が起きて、いつかはこの目で見て見ないとと思い続けていたのだけれど、主に経済的理由でかなわず。
それでも福島までは行って見たりはしたのだけれど、壊滅的被害があった街に自分は何をしに行けばいいのかわからずにいた。
今の仕事に変わって、毎日寝る時間がないほど”働かされて”、こんなことをしていていいのだろうかと、とにかく行ってみようと思った次第だ。
2011年以降、街並みを記録しておこうと動画での撮影を始めたのだけど、シロートであるからひどい出来である。
それでも目的のためにアレコレ躊躇していても始まらないと続けているのだけれど、今回ほど困ったことはなかった。
これまでは”あるもの”を記録していたのだけれど、なくなったものをどのように記録すればいいのかわからなかった。
2010年には、石巻の北、釜石まで行こうかと考えていたが果たせず、では今回は釜石へと思ったが、試しにグーグルのストリートビューを見てみると、新しい街を作り続けているのだけれど未だ途中で、あちこちに空き地が広がり、まるで新たな造成地のような画像があった。
これは困ったなぁと思った。
2次元のような場所をどのように撮影すればいいのかシロートの手に余ったのだ。
撮影している”街並み”が想像できないのだから。
結局街の広さのことを考えて、釜石から大船渡へ行き先を変更したのだけど、それとともに、ないものをないままに記録しておくことで、将来との変化が比較できるのではとの考えで撮影することにしたのだ。
そしてそれ以上に”復興”する街というものを見てみたい気持ちが強かったのだ。
今は話題にもならないけれど、震災前の東北では不景気による街の荒廃が問題になっていた。
実際に行った石巻もお世辞にも賑やかとは言えず、そういう状況で暮らす人の様子をうかがいながら、どうすればいいのだろうなぁと考えたものだ。
同様に釜石も新日鉄の撤退とかの話が街を暗くしていた時期でもあった。
そこに震災が起きて、どうなったのかと心配はすれど、実際の様子を知ることもできず、いつかはと思い続けて今に至った次第だ。
さて大船渡へと向かったが、神奈川の田舎都市からは8時間以上かかった。
朝出発しても到着は夜である。
休みは3日取ったが2日は行き帰りで費やしてしまい、現地では1日しか使えない。
それで何がわかるのかと当然思うのだけど、これまでの取材旅行から、案外わかることも多いものだと楽観的であるのは、観光でスポットを見るというのではなく、写真や動画を撮影するというのは結構周囲を把握して歩いているものだとの認識があるからだ。
見ているものが違うのだろうか。
車窓の風景も、そこに街があり、人の暮らしがあると思うと飽きることもなく見続けられる。



東北新幹線 仙台 ー 古川
宮城県
撮影 2017年9月20日 水曜日 12時40分
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