Nonsection Radical

撮影と本の空間

わかること わからないこと

2018年08月29日 | Weblog
ニュースを見聞きしてもな〜んにもわからない。
そういう気持ちなのは他の人もそうだと思っていたがそうでもないらしい。
スマホの”ニュースサイト”で流されるもので十分なようだ。
きっとsatoboよりも知識も経験も豊富で、限られた情報から事の真実をつかむことができるのだろう。
あたしにはできません。
そもそもどうしてある話題がニュースとして取り上げられたかの選択基準もわからない。
だからいつも、こんなことをどうしてニュースとして流すんダァ?と疑問に思うことばかりである。
例えば、今日は、空飛ぶ自動車の実現に向けた官民挙げての会合が始動したという話。
これはNHKのラジオニュースだったが、聴いても「ハァ〜?」としか思えなかった。
だってこれまでわが国では空間を自由に利用できないようにがんじがらめの規制をしてきたんだよ。
ドローンだってなんだかんだと理屈をこねて自由になど飛ばせないし、その結果日本のドローン産業など広がらなかったし大衆化することもなかったわけで、産業の可能性の芽を潰しても規制できることはするというのが”官”の影響力誇示のやり方だったわけじゃないですか。
電波だってそうだし、道路利用だってそうでしょ。
そうやって取り締まり、規制ばかりしているから、そもそも何が問題なのかをみんなが考えないし、そのためには何ができるかも考えないし、その結果何も生まれない社会になってしまったわけね。
そういえば某つぶやきで、歩道を自転車で通行していて対向車を避けたら罵声を浴びたとお嘆きの方がいらしたが、そもそも、そもそもだよ、なぜ自転車が歩道を走るのかという事についての考察もないし、歩道を走行するにしても左側の歩道を(歩道の左側ではない)走行するものだという”ルール”にも頭が回らないものだから罵声を浴びる事になったという判断にも結びつかないわけね。
ついでに言えばエレベーターに並行して階段があるにもかかわらず、エレベーターの右側を空けて渋滞を引き起こしても無自覚である人と、階段を利用する事なくエレベーターを歩いて危険をまき散らす人の思考にも、そもそも思考というものがないと言いたい。
話がかなりズレたけど、
そんな変な規制と無自覚行動のわが国で、空飛ぶ自動車の実現などあり得ないんじゃないのかと自分は認識しているんですけど。
じゃあなぜそんな話がニュースになるのか、さかのぼればそんな話に”官”がしゃしゃり出てくるのか、それがわからない。
それを解説する話は出てこないし、ニュースには。
で、邪推するんだけど、初期のドローンでの”自由飛行”に”懲りた”結果、西欧で進んでいる空飛ぶ自動車推進の動きに日本でも初期から関与して規制と影響力確保(天下りとは言わないよ)に励もうと”官”は考えたのではないかと。
それはどうなのかは将来わかる事なんだけど、覚えておく必要があるな。

またエアコンが壊れて病室におかれた患者が大量死した事件でも、ニュースだけでは全然わからない。
そもそも発表記事だけを伝えるニュースには、死亡診断書の一言もないし、捜査するという話の内容も不明だし、監督官庁の”指導”の一言についても中身を吟味していないし。
ネット上にはあれこれまとめナンチャラとかの”記事”がたくさんあるけど、流石にまとめサイトだけあって自分で調べた情報など手間のかかるものはない。
ただ単に”まとめ”ただけの話で、そこに疑問や不明な点を抱くという行為は行なわれていない。
実は、少しの期間だけど病院に関係した仕事をしていた時期があり、その範囲においては知っていることもあり、知らないこともあるんだよね。
いろいろな仕事を中途半端に渡り歩いてきた結果、多少の”雑知識”を持っていたりするんだけど、もちろん上記のように知っていることもあれば知らないこともあるという自覚はある。
それでもその半端な知識でこの事件をちょっと調べたりして、「あ〜そうなんだよなぁ」と思うこともあった。
だからと言って多数の死者を出した事件を擁護もしないが、単純に批判もできない。
社会の矛盾が詰まっているんですよ組織には。
まだ明らかになっていないことも多いし、それが明かされるかもわからないけど、単純に今日のニュースは今日読み捨てみたいにしているとわからないことだらけになってしまうからね。
残念ながら、地道な取材を重ねる”調査報道”に興味を持つ人も少ないし、そのため、努力の結果を発表する場を確保できない取材者も増えて、表面的感情だけであれこれいうだけの社会になっているから”真相”と問題点が明らかになるかはわからないけど。
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バテバテ夏バテ

2018年08月24日 | Weblog
8月は休みを取る人が多いので、その補充要員として年寄りは重宝されるのだけど、さすがに8月も後半になると体力が続かず、ずっとだるい状態が続いている。
何もする気にはならず、できるだけ横になっていたいんだけど、最低限度しなくてはならないことが、それだけでもいっぱいあって気持ちも鬱になってくる。
そういう時には何もしないでひたすら大人しくしていることが一番であると経験上わかっているので、この時期はじっとしているんだけど、それでも頑張ろうと思うこともあるわけだ。
明日からまた連続勤務で月末まで働き続けるので、今日しか出かける日がなく、写真展に出かけた。
それで感想をつぶやいていたわけだが、ここでは再現しない。
基本的にすべてを受け入れた上での感想なのだけど、それをどのようにとらえられるのかは自由だ。
次回を楽しみに待つことにしよう。
作品を見るのが好きなオッサンのつぶやきです。

満員電車の前に帰宅して、夕飯作ってあしたの準備。
ダルさは抜けない。
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久しぶりに撮影

2018年08月15日 | Weblog
動画の撮影は一休みで、久しぶりに写真撮影に出かけた。
カメラはコンデジ一台だけの軽装備。
これで自分の写真は撮れる。
カメラは写真を撮るための道具なので、撮りたい写真が撮れればどんなカメラでもいい。
若者の街に潜り込んで撮りたいものを撮りたいように撮ってイイカンジで終了。
でも、もう少し変えてみたいな最近。
そうは言っても好きなんだよなぁ、こういうの撮るの。
こういうのばっかり撮ってるから「人と街」の撮り方を忘れてしまった(笑)。
90枚ほど撮影。

明日から58時間勤務。
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記録としての人物写真

2018年08月14日 | Weblog
オーストラリアのシドニーにある「Justice & Police Museum」(裁判と警察の博物館?)に所蔵されているマグショット(逮捕された時の記録写真)を有中部で見つけた。





こういう写真が好きなんですよ。
人物を写真に撮る場合、なにがしかの思入れを込めたり、作為を込めて作ったりしたりするじゃないですか。それがお作法のように。
それによってその人”らしさ”を表現できたりするとお考えの人もいるでしょうが、そうなのかなぁといつも思ってしまいます。
依頼写真だったりしたら、依頼者が喜んでくれるように撮影するのがスジなんでしょうが、だからと言ってその写真がその人らしさを表しているのかというと、そうじゃないんじゃない?って思ってしまうんですよね。
まあそもそも”らしさ”ってなんだよという疑問もあるにはあるんですけど。
それでも”モデル”と撮影者とは面と向かえばそれなりのコミュニケーションがはかられるわけで、”モデル”の表情は撮影者の”鏡”ではないかと思ったりもします。
だから良い表情が撮れたとしたら、それは撮影者に向けられた表情であり、そういう表情を向けられて嬉しく感じることもありましょう。
でも、自分に向けられた表情を撮りたいわけではない場合(そんな気持ちを抱くのは自分以外にはいないかもしれないが)、コミュニケーションが逆に障害になって、その人”らしさ”が撮れないんじゃないのなんて思ってしまうんですよね。
たとえばリチャード・アヴェドンのポートレートは、かなり作為的に作為を消しているように振舞っているんだけど、まだまだ不十分に思うんだよね。
それに比較して上記のマグショットというのは、かなりいいセンを行っていると思うんだよね。
かなりその人なりの特徴が出ているような。
なんて思って名前から犯歴を見ると印象が見事に裏切られたりするので人の目など(自分の目ですが)信じられませんが(笑)。

1920年代に撮影された上記のマグショットはガラス乾板に撮影されています。
やはりポートレートは大判、4x5や8x10で撮影するのがよろしいようです(断言)。
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同じことの繰り返し

2018年08月09日 | Weblog
人間なんていつも同じことを繰り返している。
そして同じことを言い、同じ様に行動し、同じ結果を招く。
もうとっくに結論が過去に出ていることを、今更ながら蒸し返して、さも新しいことを提示しているつもりなことも多い。
一言でいえば”無知”なのだが、中には意識的にその様な行動をする人もいて、一言ではいえないこともある。
しかし、ほとんどは”無知”なのである。
近頃では、ネットには全てのことがあるなんて思っている人も多い様だが、そんなわけはない。
たとえあったとしても探し出せるとは限らない。
だからネットだけに頼っていては無駄が多いのだ。
出来ることなら、後から生まれてきた人が過去の”遺産”を効率的に受けつぎ、昔よりも多くのことを理解できると良いのだが、現実には上記のように同じことを繰り返している。
きっと誰も過去の記録にさかのぼって、同じようなことはないか調べたりはしないのだろう。
そこに”答え”があっても・・・
特にネットで近頃いろいろ騒がれていることなど、とっくに過去の人が答えを出してくれているのに、わざわざ限られた知識の中だけで最初から再出発するのだからなんだかなぁと思ってしまう。
何かを話そうとした時には、少なくとも過去に同様のことがどのように扱われてきたのかぐらいあらゆる手段を使って調べることぐらいしたらどうだ。
でないと、単なる時間の無駄になるだけだ。
そして過去の知識の蓄積を持っていなければ、単なる思い込みや無知でしかない。
ことには何の意味もない。
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