Nonsection Radical

撮影と本の空間

相関図

2011年11月29日 | Weblog
相姦図ではない(笑)。

小説を読んでいて(特に外国の)登場人物が多くなると(平均して2人以上)、その関係やどんな役割りなのかわからなくなる。
時には登場人物の簡単なプロフィールをまとめたページがあって、そこと本文を行ったり来たりするのだけれど、それでも関係性がわからなくなる事がある。
つまり物忘れが激しいのだ。
カタカナや漢字の名前の場合(西洋人とか戦国時代の人とか中国人とか)似たような名前がつづくとお手上げ状態だ。
まるで綾戸智絵と松浦亜弥と上戸彩のように。
杉本彩だけはなぜか区別がつく。

それでノートを取り出し、登場人物を書き込んで相関図を作る事にした。
ホントはカードに登場人物を書き入れ、カードの位置で関係性を調整していく方が便利なのだが、寝転んで読書しており、さらにお腹にはニャンコが乗っているのでいちいち身体を動かす事が出来ないのだ。
また、パソコンで作っても便利そうだが、やはりパソコンを前にしての読書というのも、なんだか楽しそうではないので却下。

ノートでの記入は、字を間違ったり、関係性の距離を間違うと、ますますわかりづらい事になるのが欠点だ。
ある2人の関係が近いと思って、隣どうしに記入してもその後の発展がないという事もある。
意外な人物がたびたび登場したりもする。
そういう変更がノートでは出来ないのが不便だ。

それでも読み進めるうちに、何度もノートを見て、どこの誰兵衛かを確認している。
電子書籍で、名前を指し示すとプロフィールが浮き出てくるなんてサービスがあると便利だろうねぇ。

しかし、読み終えた瞬間に登場人物の名前などすべて忘れてしまうのであった。


北陸本線 青海-糸魚川
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金欠なのに止まらない

2011年11月28日 | Weblog
今月はもの入りでお金がないのに。
昨日京都に行ったついでに某書店に寄ってしまった。
特に買う本もなく、ただいつものように情報収集のため(のはず)だった。
ところが・・・
平積みされた文庫本の中にあった・・・
ジェフリー・ディーヴァーの新作(ただし文庫本として)「スリーピング・ドール」文春文庫 だ。
今回はリンカーン・ライムシリーズではなく、女性捜査官キャサリン・ダンスの話。
マズいものを見つけてしまった。
今月はお金に余裕がないのに。
ディーヴァーの小説は長編で、上下巻に別れている。
上下巻で1500円を超える。
読みはじめると止まらないので、必ずセットで買わないと、慌てて買いに走る事になる。
古本が出るのを待っていては半年以上かかる。
しかたあるまい・・・
こうして本読みはお金に困る。

でも、知っているんだ。
実は、すでに単行本で「ロードサイド・クロス」という本が発売されている事を。
そしてそれが2500円もすることを。
おまけに、ディヴァーが007を書いた事を。
「007 白紙委任状」これも2500円するんだ。
まずい。確かにまずい状況だ。
唯一の救いは、スリーピング・ドールをまだ読み終えていない事だ。
そして他にも読んでいない本がたらふくある。
ひたすら時間稼ぎをするしかないのだ。


北陸本線 泊-越中宮崎
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山科から山越えで

2011年11月27日 | Weblog
京都・山科に住む姪っ子のところに先日撮影した動画DVDを届けに。
ついでに山科の街を徘徊するが、どうも腰の状態と同様に思わしくなく、イイ感じの街並みに出会わなかった。
京都刑務所があると地図にあったので、将来お世話になるかもしれないので下調べのつもりで見学に行くが、もちろんクリーム色の外塀の周囲を怪しげに歩くだけで、中に入るのはもう少し先に伸ばす事に。

つまらないなぁと思ったので、腰のリハビリをかねて山越えで京の街へ行こうと。
地図で見ると自動車道路は多くが山科と京を隔てる山を貫くトンネルで結ばれている。
電車も高速道路もみんな京都の手前でトンネルに入るあれだ。
わずかに細い道がトンネルもなく続いているのを見つけ、出発。

山のふもとまで来たら、3時なのに山の向こうへ太陽が隠れようとしている。
歩幅を広げ山道へ元気に歩き出す。

が、途中で、どうも様子が違う事に気がつき、地図を確認すると道を間違えていた。
山道に入る手前に更に細い道があったのだった。
引き返す事を知らない人生なのでクネクネと途中で合流する方向へ歩くが、多くの場合引き返した方が結局早道である事は経験上知っている。
そして今回もあらためてその経験を積み重ねた。
どうやらここが合流点だろうという場所に来て、のぼりだすが細い道に結構クルマの行き来がある。
轢かれないように注意しながら山の景色を眺めて歩き、それほど時間もかからず京へお降り立つ。
昔の人はこうして山を越えたのだと思うと、信長も偉かったなと感心。
というより、今の人、歩かなさすぎ。


和歌山市 妹背山 Part2
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ルールとマナーは違う

2011年11月25日 | Weblog
自転車が車道を走るようにというのが騒ぎになっているけど、何が問題なのかちっともわからない。
自転車も法規に従って走ればいいという事だ。
以上 チン!(笑)

騒いでいる話を聴くと、どうも自転車が車道を走ると危険度が増すからという事らしい。
おなじ理由で、自転車が歩道を走ると歩行者の危険度が増すから、歩道から追い出されたのさ。
まあ、追い出されたというと語弊があるので、本来走行する場所へ戻されたという事だ。

多くの人が勘違いしているのは、自転車にも法規が適用されるという事だ。
自転車はどこでもどんなふうに走っても自由で、拘束されるのはマナーだけ、というのは間違いなのだ。
自転車はマナーを守って走るものではなく、法規(ルール)を守って走るものなのだ。

法規を守って走る事で、ある程度安全は確保出来るのだ。
ある程度以上は、自動車運転者のルールを遵守させる必要性の問題だ。
だから、自転車運転者と共に自動車運転者にも運転の法規を守らせる必要がある。

とにかく自転車で法規通りに走っている人が少ない。
法規を知っていても守らない。
遵法意識がない国民だ。
そういう輩が事故を起こしても「自己責任」だ。
どんどん罰すればいい。簡単な事だ。
自転車は無法ではないのだ。

車道を走れば安全が確保出来ない?
そういう人は自転車に乗らなければイイのだ。
安全が確保出来ない人がバイクや自動車に乗っている事を想像してみれば、それがどんなに無謀な事かわかるだろう。
気楽な気持ちで自転車に乗ってはイケナイのだ。
そんな事をするから、事故を起こし何千万円もの賠償を請求されるのだ。
その金額が、どれほど気楽なものと言えるのだ。
同様に、自動車が自転車を邪険にすると、事故を起こした場合、何千万円もの賠償を請求されるのだ。
実に明確な事ではないか。
自転車にも自動車にもそれぞれ法規が存在し、それを守って走るというのが「ルール」なのだ。
その法規を知らないというのはイイワケにもならない。
たとえば、自動車運転免許の試験で、たとえ合格しても、一問だけ間違った場合、「赤信号は止まらなくてもいい」と思っていても、実際に赤信号を無視して事故を起こした場合、「だって知らなかったんだもん」は通用しない。なぜなら、法規ではそう決まっているから。
法規で決まっている事をそれぞれが守れば、事故はそうそう起きないのだ。
だから、法規を守って自転車に乗ればいいのだ。

それを法規も守らず、危険に身を晒されるだというのは、歩行者からすれば勝手な理由だ。
好き勝手に走れないのならイヤだというのは、まったく話にならない。
現実にも、歩道で好き勝手に走って、事故を起こす自転車は山ほどある。
そんな法規破りの連中のゴタクを聞く必要などない。
一旦停止無視でも、右側通行でも、無灯火でも、脇見運転でも、事故をしてたとえ死んでも、なんの問題もないじゃないか。
多くの事が、自動車運転時の事故でも、なんの問題もなく処理されている。
自転車だけ絶対に安全を確保しなければならないなんて事はないのだ。


そして最低限のルールが守られてこそのマナーなんだ。


和歌山市田野 Part2
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使えねえヤツらと苦笑

2011年11月24日 | Weblog
昨日見た姪っ子のパフォーマンスでは、舞台上での準備に手間取り、かなり時間を無駄にした。
それを見ていて「使えねえヤツらだなあ~」と苦笑すると、教員であった義兄が「まあまあ、彼らも段々と成長していて・・・」などと言うので、話しても無駄だと思ったので黙っていたが、心の中で「使えるか使えないかは才能なんだよ!」と叫んだ。
確かに彼らは頭もいいし、理解力もある。
でも、例えて言えば、「いつも自分の部屋の中をキレイにしているんだけど、どこかの乱雑な部屋を片づけろと言われたら、どこからどのように手をつけたらイイのかわからない子ら」なんだ。
コツコツと築き上げて、それを維持する能力はあるけど、混沌の中に置かれたら止まってしまうんだ。
実際にも、舞台の上で全員の動きが止まり、どのように対処して作業を進めればいいのか沈思黙考してしまった。
「普通」こういう場合には、誰かがパッと動き出し、エイヤッと片づけてしまう使えるヤツが登場するのだが、それがなかったので、「使えねえヤツらだなあ」と苦笑したのであった。
まあ公務員とか養成する学校と言えるので、どちらかと言えば使えるヤツより、ひとつひとつコツコツと積み上げていくタイプの人間の方が有用何だろうけど。
もちろんパフォーマンスは練習もしたので立派にこなしたが、準備という下ごしらえに頭の働かせるヤツがいなかったという話である。



和歌山市雑賀崎 Part3
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