Nonsection Radical

撮影と本の空間

1987-2005-2013

2013年10月31日 | Weblog
JR北海道で立て続けに事故が発生しているニュースに触れて、どんな問題があるのだろうと思っていた時に、「国鉄処分」鎌田慧著 講談社文庫刊を手に入れた。
この本をきっかけに、国鉄民営化と一連の事故と関連性があるのだろうかと調べてみる気になったのだけど、なかなか一筋縄ではいかない。
国鉄民営化前後の様子を主に北海道の現場(タイムリー)で取材した「国鉄処分」は、国労組合員の様子をレポートの縦軸に据えているのだけれど、一方で民営化の問題点、経営者側、政治家の動向などを織り交ぜて、国鉄民営化ははたして経済的な問題なのかと疑問を投げかけている。
で、その疑問に対する解答と現在のJR北海道の件と、民営化の犠牲ともいわれる福知山線脱線事故に渡って何か報告されていないかと興味を持ったのだ。
ネットを見ると民営化と今回の一連の事故とを結びつける論調が数多く指摘されている。
でも、民営化が1987年ですでに26年経っている。
その間にどのような動きがあって、結果的に26年後の現在にこのような事故が多発する事になったのかを説明する話はない。
ただ単に民営化の歪みが事故につながったと直結する結論だけが述べられている。
まだ福知山線脱線事故に関する資料にまで手が伸びていないのだけど、事故当時は民営化による”合理性”追求の事が話題になってはいたのを記憶している。
実は、当時の資料をかなり持ってはいたのだけれど、諸般の事情で全て廃棄してしまい、狭い住環境の悲哀を噛み締めている。
ネットで探っていくと、経営面での合理化の成果や国労解体による労使関係の”改善”に対するレポートなどがあるが、どうかなぁと感じるのは、たとえば福知山線脱線事故に関しても事故件数の中の単なる1件の事故でしか扱われていない。
そして全体的に国鉄時と比べて民営化後は事故数が減ったと結論づける。
それも最近の調査ではなく、数年前の調査でその後はわからない。
出版されている本を見ても、民営化に関わった人物の著作はもちろん民営化によりいかに”経済的”に成功を収めたかを自画自賛するものであり、福知山線、北海道の事故をどのようにも判断していない。
当然そこからは鎌田慧氏が問題視した事の解答は得られない。
一般人の記述では、民営化の元凶は国労の横暴の結果であり、だから国労組合員を一掃した民営化後のJRは”経済的”に健全化しているではないかとの論調が多い。
ではなぜ福知山線脱線事故や現在のJR北海道の事故が起きるのかという解答にはやはりたどり着けない。
一部ではまた組合員の横暴でこのようなテイタラクになったという声もどこからか出てきているが、常に経営者側つまり会社組織の問題点の有無は語られる事がないので、JRは今どのような組織なのかがわからない。
また国鉄赤字化の原因のひとつであった政治家の恣意的活動に関しても、整備新幹線の件でもわかるように現在も行なわれている状況は変わらないのに内実は伝わってこない。
鎌田慧氏は年老いた一介のルポライターである。
その一人が調べる事よりも、例えば新聞社であればもっと複合的に調査出来るであろうに、民営化後から現在までのリポートというのが本で見つからない。
ないのか、見つけていないのか。
でも、記憶ではそのような本を目にしていない。
道路や鉄道、橋など構造物が寿命を迎えようとしていると問題になってきた現在、JRだけの話ではなく一体何が問題で、なぜ問題が問題になるのか、その入り組んでいるであろうカラクリを知りたいだけなのだ。
それを広く伝える事は、個々の問題以上に国民全体の問題として必要な事なのではないのかな。
その役割りをマスコミはやらなければならないのになぁ。
引き続き調べてみよう。




近鉄八尾北商店街
大阪府八尾市北本町1丁目
撮影 2013年10月12日 土曜日 12時45分


本町通りから春日神社
奈良県大和高田市内本町,大中東町
撮影 2013年9月14日 土曜日 12時00分
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断続的な性格

2013年10月30日 | Weblog
真面目に毎日コツコツという性格でもない。
かといって熱しやすく冷めやすい性格でもない。
惚れやすい性格でもなくはない(笑)
一度始めた事をすっかりやめてしまうわけではなく、そのうちに再び始めるような事も多い。
ただ、あれもこれもこれもとやり続けていると収拾がつかなくなるので、一時中断という感じだ。
ふとしたきっかけで以前の画像をパラパラ見ていたら、昔の写真の方がずっと面白いのだった。
上手いというのではなく、面白い。
頭が軟らかい。
視点が自由。
もちろん当時は自由などとは思っておらず、苦心惨憺悩みながら写真を撮っていたのは今と変わらないのだけど、時間が経つと冷静に見れるのか苦労など語らない「見た目」だけの写真として楽しめる。
そして、そういえば以前やっていた「表層剥離」というサイトがあったなあと思い出した。
建物の何も語らず単に表面だけをはぎ取って並べたものだ。
だから何も語らず楽しめば良いのが”コンセプト”だ。
それをまた再開しようかと在庫ファイルを探してみると、ソコソコの数の画像があった。
同じような写真を飽きもせずに撮り続けていたわけだ。
で、ひっそりと再開する事にした。
画像はこの日記で使用したものばかりだが、まとめて見るとまた違った趣があると思うのだけど。






赤川仮橋
大阪府大阪市東淀川区東淡路1丁目,都島区大東町3丁目
撮影 2013年9月21日 土曜日 15時20分


広小路通り 2
愛知県豊橋市広小路2丁目
撮影 2013年9月7日 土曜日 13時55分
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非難ごうごう

2013年10月29日 | Weblog
いやぁテレビは視ないから実際の所はどうかは知らないけれど、ネットのニュースなどを見ているとテレビでの誰かの言動に対して主にネットで批難をする人が多いという事だ。
まあネットなんてなかった時代は、テレビで誰かがバカな事を言ったりやっても、実際にテレビ局に電話や手紙で抗議する人は少なかったようだし、受け取る側もイヤなら見なきゃぁいいだろうと”正論”も吐けたようだ。
それが手軽な発信手段が出来たので、「意見」を発する事が出来るようになって便利になったものだ。
でもどうしても思うのは「イヤなら見なきゃぁイイじゃない」という正論だ。
抗議して謝らせてそれでも見るという広い心がわからない。
いたぶっている、なんて思ってもいませんよ。
ただ面倒な事をするもんだなぁと思ってしまうだけなんだね。
そこまでしてテレビやマスコミ媒体を見ていたいかぁ?
それに反応するのなら、自らが発信源になればイイのにと思う。
もちろんテレビのように他の媒体の情報をパクって番組づくりするような真似はしないで、自らが新しい情報発信をしながらね。
どうも歳を取ってボケているから、テレビに向かってブツブツいう年寄りと、ネットを使ってブツブツいうのとの区別がつかないんだよね。
どう違うの?
また抗議ごとぎで大マスコミがすぐに平身低頭して視聴者におもねるというのもどうかね。
そんなに謝るような事を度々繰り返すなよと思うよ。
まあそれぐらいマスコミが一般人にとって身近な存在だと認識されているんだろうね。
遠い世界の存在だと思っている私には理解出来ない事だけど。





サンロード瓢箪山 中央商店街
大阪府東大阪市昭和町,本町
撮影 2013年7月20日 土曜日 17時35分


江ノ島2 中津宮
神奈川県藤沢市江の島2,1丁目
撮影 2013年8月16日 金曜日 13時10分
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読み解くためのものじゃないだろうと

2013年10月28日 | Weblog
様々な表現、映画、小説、写真、絵画、音楽などを楽しむ方法に「読み解く」という行為がある。
それはそれで作者の意図を味わい、他の人の気づかない事に思いを馳せ、ある種優越感を覚える事であるし、同種の事を行なっている人には我が身の参考になる事ではある。
でも、それがわかっていないヤツはシロートだからダメで、楽しむ”価値”のないヤツだ、という考えにはそうかなぁと思う。
もちろん作品に込められた作者の要素を理解すれば、より作品に対する楽しみ方にも幅が広がるだろうけど、それを前提とした作品である場合を考えれば、随分つまらない事をするものだと一面では思う事も出来る。
読み解くための読み解き、テストのためのテストみたいなものは、時には高尚な効果を発揮する場合もあるけど、多くが底の浅いものに感じる事も事実だろう。
その作品から得た感情が、どういうプロセスで自分に訴えかけてくるのか分析する時に、理解を深くする要素を身につけていればわかりやすい手助けになるというものが理想的だ。
そうであるならばその要素を口に出す必要はないだろうに、その要素だけを語り、肝心の得た感情を語る事がない「私”だけ”は知っている」自慢になるケースが多くて、じゃぁそれで何を感じたんだよぅ?って突っ込みたくなる場合が多い。
評論家ならそれはそれで仕事の一部として認められるだろうが、そんな事をシロートがして楽しいのかという疑問もわいてくる。
まあそれが行き着いて、ファストフードであろうと何か気の利いた”評価”をするのが昨今のハヤリであるけど、そんなことイイんじゃないの?と思うのは、相良直美のの影響がないとは言えない。
あるものに触れて、なんかこれすごい!と思う感情が現われればそれがその人の感受性であり、その感性が得られれば触れた価値があったものだと言えないか?
そしてその感情がどこから来ているのか知りたくなった時に初めて”知識”が役立つのであり、読み解く事だけを重要視すると、ものを感じて楽しむという事がどこかに追いやられてしまう。
楽しかった、面白かった、泣いた、驚いたなどたくさんの喜怒哀楽を感じてこその「鑑賞」をもっと楽しむべきじゃないのだろうか?
特に何か自分でも表現行為に携わっている人こそ、技術や思想と離れて感受性を最大限活かして楽しむべきじゃないのか?





近鉄八尾駅前
大阪府八尾市光町1丁目
撮影 2013年10月12日 土曜日 12時40分


飯沼観音
千葉県銚子市馬場町
撮影 2013年8月12日 月曜日 15時10分
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スタイルの呪縛

2013年10月27日 | Weblog
昨夜からパソコン画面を睨みながら、ん~と唸っているのは、今冬の服装をどうしようかと思って。
オッサンのくせに巷のオッサンの地味で野暮でオッサン臭い服装とは無縁でいるのは、服装のスタイルが30年以上変わっていないからだ。
30年前の服装と同じまま30年経ち、服は同じでも中味はすっかりオッサンになってしまっているのだ。
いつの間にかオッサン臭い地味な色合いの服装に変わっていく人生観とは別の世界に住んでいる。
基本はアウトドア(野良着とは違います)。
そう、現在のナウなヤングがファッションとして着ているミリタリーとかフィールドなんとかに類するもの。
ただ違うのは「~ルック」ではなくて、「~」そのままなので、ある意味地味で野暮ではあるので”ファッション”ではない。
そのまま何十年も着続けているものもあるが、生地がよれたり、ほつれ、すり切れが出ているは中味のカラダと同様。
また、”ホンモノ”は重いので、それが最近の体力低下とともに負担になってきているのだ。
では最近の軽快なファッションに切り替えればと思うのだが、いざチェックしてみると、あれがダメ、ここがドウモ、こんなんじゃぁ・・・と、どうしても”実用”を考えてしまい二の足を踏む。
それに現実的路線として上下ユニクロのオッサンというのも、そりゃ無理があるでしょう~と思うのですよ。
じゃぁと、近場のショッピングセンターに行ってみたのだけれど、子供連れの家族がレジャーの代わりに回遊している広いフロアーをウロウロして、ようやくたどり着いた「紳士ファッションコーナー」に行けば、子供もすっかり独立した老夫婦が選んでいるようなコーナーにしか、オッサンの服はないんだよね。
いや、実際のところ、そこで良いわけなんだけど、なんか納得出来ないものがわき上がってきて、手に取る服にいちいち「わ~オッサン臭い!」って口に出し、そそくさと売り場を後にする結末。
一体、どんな服を着たらイイのだろう?
小雪も舞う風荒ぶ季節の街並みを5,6時間は休みなく歩き続けて撮影しても寒くなく重くなく不審者に見られないスタイリッシュな服装なんだけど。
一番便利なのはミリタリーだけど、この際そのスタイルはやめてフレッシュに行こうと思うんだけど、他に思い当たるのが工事現場の誘導員の服装しかないというのは想像力の限界なのかもしれない。
誰かコーディネートしてくれ~




新大阪駅東歩道橋から
大阪府大阪市東淀川区西淡路1,2丁目
撮影 2013年9月21日 土曜日 14時30分


千本通壬生高樋町から
京都府京都市中京区壬生松原町,壬生辻町
撮影 2013年8月3日 土曜日 15時55分
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