Nonsection Radical

撮影と本の空間

FROM RUSSIA WITH LOVE

2017年02月23日 | Weblog
撮影に行く時間もないし、気力もない。
なのにロシアからはメッセージ。
satoboの動画は、どういうわけか海外で閲覧されているらしい。
基本は日々変わっていく街並みを記録するきわめて地味な面白みのない動画である。
それが面白いらしい。
国内では、”地元”が撮影されての感想が主で、知らない土地への興味というのはあまりなさそうであるが、海外からは知らない、それも地味な街並みに興味を持つ人が多いようで、さまざまなコメントが寄せられる。
中にはリクエストもあって、そのままお店の中に入って店内を写し出してくれとか、すごく楽しそうだけど現実には難しいものや、夜の街をとか記録としてはどうかと思うものもある。
そして最近滞りがちになるアップロードに、楽しみに待っているとの励ましもある。
そしてロシアからもそういうコメントが来るのにちょっと驚く。
自分の撮影した動画とロシアからの興味が結びつかないのだ。
何が面白いのだろうね。
確かにテレビで流れる日本の街のイメージとは違うかもしれない。
普通の街はテレビには出ないのだ。
出ていると思っているかもしれないが、出ていないんだな。
そのギャップが興味を引くのかもしれないが、よくはわからない。
でも、そういうのに興味を持ってくれて、メッセージまでくれるのだから老体に鞭打って頑張らないと。
といいつつ、明日から4日で計11時間睡眠の仕事が待っている・・・orz
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みんな物語を欲している

2017年02月18日 | Weblog
動画はネタ切れです。
しばらく撮影に行けない状況が続きそうです。

”本”を読まない人が増えたと言われ続けて幾年月。
本好きからすると「どうして?」と思うのだけど、身近な若者を見ていると、ドラマを見たり、コミックを読んだり、ネットワークゲームをしたりしている。
そこにそこはかとなく共通するのは「物語」なんじゃないのかと思った。
物語・・・ストーリー
なんにも興味を持たずにボーとしているわけではなく、時間があるときに上記のようなもので時間を潰しているわけだ。
単純に考えれば、物語性のないもので時間を潰してもいいのだけれど、そして以前なら物語性といえば小説を読むことだけだったんだけど、小説を手にせずに他の媒体で物語性を手にしているんじゃないのかと最近は思うようになった。
それを小説”原理主義者”は、小説(=本)を読まなくなったと嘆いているだけなのではと。
小説だって、今は様々な形式のものがあって、従来の”小説家”が書く正統なものから、若い人に読まれるものまで人と世代によってわかれている。
どれがいいとかのものではない。
どれが優れて、どれがくだらないものであるかというものでもない。
自分も最近は電子書籍ではティーンズものを好んで読んでいる。
”守旧派”からすると単純で底が浅く読むに耐えないものとなるかもしれないが、そういう考えを持たずに読めば結構楽しい時間が過ごせる。
例えば、映画に高尚なものと娯楽性の高いものがあるように、どちらが優れているかなんて見る方には関係ないのと同じである。
芥川賞作家のものは読むが、直木賞のものは・・・なんて今時言う人もいないのと同様に(いるだろうけど・・・)どの媒体で物語を楽しむかは選ぶ人の好みになっているだけではないかな。
そう思って見渡せば、小説=本が時代にマッチしなくなっただけで、相変わらず人は物語を欲しているんだと思えて、それでいいんじゃないかと考える次第。

時間がないので、かなり今日の文章は雑です。
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ソフトとアプリ

2017年02月15日 | Weblog
モバイルの歴史というのはパソコン持ち運びの歴史と言っていい。
少なくとも自分の場合はそうだ。
普段家で行なっているパソコン作業を外出先でもというのがこの何十年かの”夢”であった。
もちろんそれなりの出費をし、最新技術に目を配るような人ならばすでに可能な世界であったであろうが、単なる”ユーザー”であるだけの身では、そうそう最新機種を買い続けることなど”趣味”の世界での話になってしまう。
それが解決したと思わせたのがスマホの出現、あるいはタブレットの一般化であった。
スマホもタブレットも立派なパーソナルコンピュータである。
性能も高いし、”電波”で外部ともデータのやり取りも簡単にできる。
そういうものが手頃な価格で登場したのだ。
これで”夢”が叶うと思ったわけだ。
ところが・・・
どうも使い勝手が良くない。
正確には良くないのではなく、パソコンとは使い勝手が違うのだ。
パソコンの時にはソフト(アプリケーションソフトのことね)と呼ばれたものが、スマホではアプリ(アプリケーションソフトのことね)と呼ばれるようになり、パソコンと”同様”の機能が装備されるようになったのだが、画面の大きさなどの関係から、使い勝手は異なる。
それがパソコン育ちのジジイには使いにくいし、使い方がわからない。
たとえばGmailの場合、何も考えずに作成ボタンを押して、”To”をクリックして連絡先から送り先を選べば済んだのに、これをiPodのGmailアプリでやろうとすると、まず”To”を”クリック”できない。当然連絡先一覧は出ない。なんらかの文字を打って初めて該当するリストが表示される。
ところがなんらかの文字の”なんらか”がハッキリしない場合、どうやって頭に描く相手先を呼び出せばいいかがわからないのだ。
もちろんそんなことはきっと簡単にできるのだろうが、パソコンと”お作法”が違うことは確かだ。
そうなると2つの、あるいは複数のお作法を覚えなければならない。
同じソフト(あるいはアプリ)で複数の使い方を覚えなければならないのはジジイにとっては不合理なのだ。
できればパソコンでの使い方を”優先”したい。
だって便利なんだもの。
この一例だけでも、パソコンとパソコン機能の内蔵されたスマホやタブレットは別物だなと感じてしまうのだ。
割り切ってしまえばいいのだろうが、それだと当初から思い描くモバイルとは違ってしまうのだ。
ソフトとアプリの違いといえば、ソフトには対応する使い方解説書などが第三者から出されていて、その”本”を読めば様々な使い方が勉強できたのだが、アプリには該当するようなマニュアル本がほとんどない。
そもそもアプリ自体が単体で安価な上、そこにアプリの価格を上回るようなマニュアル本など出しても誰も買わないという状況があるのだろうけど、その結果ネットで個人の使い方説明みたいなものだけがあって、それでは知りたいことがわからないという中途半端な状況となっている。
そもそもグーグルなどは様々なアプリを出しているが、そのアプリの”正式な”マニュアルなどない。あるかもしれないが探しても見つけられていない。そんなことってありなの?ヘルプはあっても、全体の操作を網羅するまとまったものが見つからない。
試行錯誤して使えということなのか。
Android携帯などハードもソフトもきちんとしたマニュアルがないものも多いのではないか。アップルにはあるけど。
そんな状況でどうやってみんなは使い方を覚えているんだろうと不思議なのだが、実態はなんとなくというものではないのか。
そういう状態のものって、これまでの経験上、しばらくすると消えていってしまうんだけど。
スマホがそういうことにならないことを願っている。



稲村ガ崎の街並み 2
神奈川県鎌倉市稲村ガ崎2,3丁目
撮影 2016年12月29日 木曜日 16時50分
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郷に従えの思想

2017年02月13日 | Weblog
中日新聞に掲載された上野千鶴子さんの”発言”がネット上で”騒ぎ”になっている。
人口減少を補うために移民を受け入れて”活性化”させようという話は日本人には受け入れ難いから、そんなこと考えずに人口減を受け入れ、その結果経済が衰退してもみんなで貧乏を受け入れましょう、という話。
これに対して主に左、アカから反発が起きていて、多民族に対する差別的発想だとか、これまで進めてきた「私たち」の活動を否定するものだとか”存在感”をかけた発言が続いている。
これらの発言を読みながら「ふ〜ん、左翼の人ってこんな事を考えて”いたんだぁ”」と思った。
まず、全然周りが見えていない。
どうしてあなた方が”少数派”であるのかの認識があるのかね。
それはあなた方の考え方とは違う人が大多数を占めているから。
だから少しずつ世の中を変えていこうとしているはずなのに、いつの間にか仲良しクラブのように意見の合う人だけが集まって、あたかも自分たちが”主流”であるかのような楽観性が見え隠れし、少しの異論も排除していくかつての学生運動のような動きがあるように思える。
それから、いつから政府、財界が進めようとしている”移民政策”に賛成するようになったのか?
あくまでも労働力を補う事だけを目的とした政策で、下働きを中心とした労働力を補完しようと考える甘い考えに乗っていいのかね。
現在の外国人労働者の環境を考えても、上に立つ日本人、それを支える外国人という階層化社会をさらに強化することになることを認識しているのか。
その結果が、欧米を中心にした格差社会で、社会に不満が鬱積してテロの温床となっていることへの認識があるのかね。
というのも、どうしても日本人には右も左も「郷に入れば、郷に従え」の考えが染みついているようで、移民を受け入れても、あくまでもこれまでの日本のスタイルを守るべきだ、守らなければならないと考えている節がある。
だから移民にも日本語を話し、日本の習慣を身につけることを期待し、強制しようとする。
そんなこと無理じゃないのさ。
それぞれがそれぞれのアイデンティティーを持ち、それぞれの主義主張で生きていくのが”多様化”の社会じゃなかったのかい。
口では言っても、実のところそんなことは考えていないのではと思えるし、政府、産業界だって考えていない。
あくまでも同化政策を進めようと思っているだろう。
そりゃあ、便利だと思えば日本語も覚えるだろうけど、だからといって自分たちのアイデンティティーを捨てるわけもないし、捨てさせるわけにもいかない。
そういう当然のことを平気で「郷に従え」思想はぶち壊すんだから。
でもそれを当然のこととして大多数の日本人は”期待”しているわけだよ。
それをどう思っているんですかね。
まちなかで多数の外国語が飛び交い、近所に外国人が多く住み、3K仕事をこなす彼らの中から成功者も現れて、下層社会から抜け出れない格差の中で不満を持つ者も出てくる、まあ今の西欧の社会そのものだけど、それに対して日本人は本当に耐えられるのですか?
個人的な話じゃなく、あなた以外の大多数の住む社会がだよ。
そんな世の中に今なっているのかね。あるいは近い将来そうなるのかね。
そうあるべきだという理想論ではなくでだよ。
政府、産業界が思い描く甘い汁に、そんなに安易に乗っていいのですかね。
というより、むしろそういう甘い汁の考えが根底にあるのではないのかね左やアカの人にも。
そんな相手にも失礼な甘い考えなど持たずに、自分の尻は自分で拭くのが、人口減少、産業衰退を日本人”だけ”が受け入れて「みんなが貧乏になろう」という考えなんじゃないのですかね。
だって将来予想される”悪夢”は日本人自身が招いたことなんだから。
それを他国の人を”利用”して補おうと考えるのは間違いなんじゃないの?
どちらにしても求められるのは、現在の(過去から続く)日本人の考えを大幅に変えて、新たな日本社会のあり方(働き方、生き方、考え方)を作り上げることなんだけど、そんなこと早急に(2,30年でだよ)できるとも思わないし、そうしようとも大多数の人は思っていない。
で、”多様化”の流れをどうやって受け入れるというのですかね。
そういうふうに上野千鶴子は突きつけたと個人的には受け取ったけど、紋切り型のシュプレヒコールしかできない真っ正直な人たちには評判は悪かったようだ。
あくまでも”移民政策”と多様化社会の実現は別の考えであると認識すべきだと思うんだけど。



極楽寺の街並み
神奈川県鎌倉市極楽寺1,3丁目
撮影 2016年12月29日 木曜日 16時30分
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磨かれない器

2017年02月08日 | Weblog
先日すごく地味なんだけど磨けば光るなぁと感じさせるジョシを見かけたんだけど。
まあジョシだけでなく、何かをしている人に”可能性”を感じて”先物買い”をするのが好きなんだけど、たいていの場合はそのまま光らずに終わってしまうことの方が多い。
残念だなぁと思う一方で、まあそんなものだろうと思う気持ちもある。
というのも、きっと本人にとってはその時の状態が一番心地よいものであろうと思うからだ。
人ってものは、他人が思うほど自分のことがわかっていなくて、どこに自分の欠点や良い点があるのかわからなくて、あるいは理解しようとはしないもので、あくまでも”現地点”での心地よさを求めるものなのだ。
それを他人が勝手に”コーディネート”しようとしても、本人には不本意なものであったりする。
もちろん一皮むけた自分というものを求める人もいるだろうが、それもあくまでも自分にとっての一皮であり、心地よさを伴うものでないとイヤなものだ。
磨かれない器というものは、そういう取扱注意物件であるので、そっと静かに見守ることが”ギャラリー”としてはつとめめなのだと思う。
残念だけど、そういう器が結構埋もれているものなのだ。
「俺好みの**に・・・」なんてのは、もっとも最低の結果を招くことになるのも自覚しているし・・・



長谷2丁目の街並み 1
神奈川県鎌倉市長谷2,3丁目
撮影 2016年12月29日 木曜日 15時50分
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