Nonsection Radical

撮影と本の空間

約束

2010年03月27日 | Weblog
某月某日
先日の上海君さんの写真展で紹介された小林弘人さんが参加する写真展に行ってきた。
お逢いした時に「見に行きます」と言ったのは、小林さんに興味を抱いたからで、お為ごかしに言ったわけではない。
よくこういう場合に、「行きます」とか、中には「ぜひ行きます」などとその場では言いながら、実際には行かない人がいる。
お人好しのsatoboはそんな言葉を真に受けて、待てど暮らせど誰一人来ないという事があったので、自分では確約出来ない事は言わないと決めている。
それがその場ではイヤな雰囲気を作ったとしても、最終的にもっとイヤな気持ちにさせないと思うのだ。
もちろん来てくださいという人は、多くの人に声をかけ、そのみんながみんな来てくれるとは思っていない事は承知している。
小林さんも同様にたくさんの人に声をかけ、行きますと言う返事をもらっている事だろうと想像する。
それでもみんなが来てくれるとは思っていないはずだ、お人好しのsatoboと違って。
でも、satoboは行くと返事したからには余程の事がない限り行くので、今回もお邪魔した。
行って良かった。
小林さんもsatoboの事を覚えていてくださり、作品についての話もしてくださった。
また先生である渡部さとるさんも気楽に話をしてくださった。
そこで感じた事なのだが、小林さんの写真も含めてだが、急激なデジタル化が大衆化してきて、ついに新しい動きとして作品に表現されてきたのだ。
もちろん「プロ」の中ではこれまでもイメージを創り込むという作品は一部にあったのだけど、「アマ」ではまだ現実を切り取るという写真が大部分を占めていた。
それがデジタル化の恩恵で、イメージを写真として創り出す行為が広がってきたのだ。
たとえばsatoboの好きな版画や絵画の世界では、とっくにイメージの世界である。
作者の頭の中にあるイメージを「絵」として形にする。
それを見る側は楽しむのだ。
それを美大生ぐらいでも当然として行なっている。
そこには現実の世界と想像の世界との垣根などない。
その事に対する躊躇も葛藤もない。
当然の世界なのだ。
それに対してまだ写真の世界では、現実に対する執着があるようで、想像の世界が「大衆化」してはいなかった。
しかしどうやら変わってきたようだ。
これは良いとか悪いとか、好きとか嫌いとかの問題ではなく、新たな世界が広がってきたのだ。
特にデジタルカメラしか使った事がない世代からは、その特性を表現に利用してイメージを創る人が現れてきているようだ。
もちろんこれでフィルムカメラの創る写真がダメになるのではない事は当然だ。
世界が広がったと見るべきなのだ。
今回の写真展でもみんながイメージの世界に走っているわけではない。
ほとんどが現実を切り出す世界だ。
一部でその世界を踏み越える(飛び出す)人が現れたという事だ。
この事を渡部さとるさんもキチンと認識し、柔軟な対応をしている事に感心した。
もっと多くの人がそうした世界に出現してくれれば、写真ももっと楽しいものとなるだろうと見る側は期待する。
コメント (2)
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