Nonsection Radical

撮影と本の空間

夏風邪だよきっと

2012年07月31日 | Weblog
昨夜から肩が張っている。
冷房の効いた電車内で鼻水が出る。
イガがのどのどする。
よって夏風邪と診断。
扇風機で寝るのがまずかったか。

夏休みの予定を立てるが、結局天気予想をして寸前にどこに行くか決めるいつものパターンになる。
東京には撮りたいものがあるのだけれど、たぶん行けない。
予定がみっちり詰まっている。
サイフはあっさり空いている。
体力はめっきり落ちている。

一人旅の予定を立てていると、俺もついて行こうかなという無粋なオヤジがいて不愉快。
たとえ大島優子がどうぞ連れて行ってください、邪魔にはなりません、同じ部屋の同じベッドで寝ても構いません、と懇願されても拒否するのに。
旅は同行一人。

追伸 一緒に旅したいジョシはメールくださいね。同じ部屋で同じベッドでも構いませんから~!




神戸異人館 北野通り
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他人の振り見て 我が不倫直せ

2012年07月30日 | Weblog
帰宅すると老親がそろって「テレビが映らない。電話も通じない。ニャンコが壊した」と訴える。
すぐに、どこかの配線がはずれたなと感じた。
我が家はケーブルテレビに加入していて、電話もIP電話だ。
その両方が動作しないとなると機器の故障か、電気が通じていないかのどちらかだと想像出来る。
そこで機器の置いてある部屋に行き確認すると電源ランプがどれもついていない。
となると電気がきていないので、電源コードを確認する。
コードをたどっていくとスイッチ付き電源タップに行き着く。
通電ランプが消えていたのでスイッチを入れるとすべてが通電した。
これで解決。
モノゴトには順を追って確認すればわかる事がほとんどなのだが、年老いて先入観が先立つと、ニャンコがいたずらしてコードを切断したとか余計な想像が働き、基本的な事を確認する事をしなくなる。
最後には、ニャンコが踏んで電源スイッチが切れたのだと言い出すが、そんな事はない。
自分が間違って切ってしまったという事は頭の中から消し去っている。
人を疑うよりまず自分のした事を疑う。
それを身につけておかないと、すべてが誰かのせいになってしまう。
その事を自覚するいい機会であった。

ところで、俺のサイフから誰がお金を持っていったんだよ!
確かにサイフの中にあったんだ!
誰だよ!





北野町広場を下る 神戸市中央区北野町
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まだ心が美しかった頃

2012年07月29日 | Weblog
画像のストックがなくなったので、どうするかなと考えたのだけど、”再利用”という安易な手を思いついた。
ブログに保管されている画像で一番古いのは2004年のだ。
画像を確認すると「花」を撮っている(!)
まだ心が清らかで、邪推のない気持ちで美しいものを見ている。
今のように花を撮影するオヤジを「花撮り爺」などと思ってもいなかった(たぶん)。
もちろん心は汚れていなくても、性格は曲がっていたので、単純に花を撮るのではなく、そこで何かを表現しようとしている。
ただ今となっては、何を表現しようとしたのか思い出せもしない。
初恋の甘酸っぱさを忘れたのと同様だ。
今は甘酸っぱさより、苦々しさがこみ上げてくるのは、老化による胃酸過多だけが原因ではないだろう。
まあ、初恋の女の子の写真を今見るような気持ちで見てみようね。





神戸市中央区北野町2丁目16から
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足元注意でしょうに

2012年07月28日 | Weblog
大阪駅を出て少し歩くとモンベルがあったので、ちょっとツールでも見てみようかと店内へ。
立て看板に「段差があります注意」とあり、ハイハイと歩いて段差を踏み外した(笑)。
こういう場合、受け身として瞬間的に腹筋と背筋に力を入れてショックを受けないようにするのだが、それでも無傷なわけではない。
椎間板が潰れたようでわずかに痛みが出た。
店を出て徘徊を始める時にはグッと腹筋に力を入れて、なおかつオナラが出ないように(もちろん”ミ”も)括約筋にも力を入れて歩く。
今日も全国的に猛暑日和で、大阪も暑いようなのだが、歩いている時にはあまり感じない。
もちろん老化現象で温度がわからない恐れもあるので、定期的に水分の補給をする。
その度にどこかで座り、腰痛体操をするのだけれど、段々と痛くなってくる。
北区、福島区、此花区と歩き、西九条駅まで歩く5時間は痛みと同行二人。
すべて自分の不注意から。

帰宅後、シャワーを浴びてサッパリすると老母がツバメのヒナが巣から落ちているので元に戻してやってくれと。
腰痛でハシゴ登りは禁物なのだけど、巣の近くの電線に留まっている親鳥の気持ちを考えて決行。
ヒナを元に戻したのだけど、カラスに壊されたのか巣が半分崩れている。
これではまたヒナが落ちてしまう。
そこで補修をしたのだけれど、これが気に入らないのか警戒して親鳥が巣に入らない。
仕方なしに元に戻す。
まったく親切心のわからない野暮天ツバメだ。

その後、ひどい痛みはないが、腰は重くダルい。
ほんの一瞬の事で大きな痛手となるのは段差の踏み外しも恋の踏み外しも同じだと実感。





大安亭市場 2012 神戸市中央区
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大衆化は首を絞める

2012年07月27日 | Weblog
昔は、今のように土用の丑の日だからといって気軽に手安く鰻が食べられたわけではない。
スーパーでパック詰めされて売っていたわけでもないし、値段も安くはなかった。
結果的に鰻の稚魚の保護になっていたわけだ。
大衆化する為に中国や台湾で養殖を始めても、稚魚を捕る事にかわりはない。
結果的に安く口に入る事になったが、稚魚の数が激減した。
取り過ぎが稚魚減少の原因ではないかもしれないが、減った上に更に捕獲して数を減らしている事にかわりはない。
思えば、日本人が口にする魚介類は取り過ぎによって減少しているものが少なくない。
マグロやカニも、ハタハタなんかもだ。
穫れるだけとって”大衆化”し、そのあげくに取り尽くすところまでいかないとやめようとしない。
そんな事の繰り返しだ。
結局永続性とは無縁の漁業となっている。
それでイイのか?
イイか悪いかも考えないのか?
大衆性は希少性をなくしてしまい、結局すべてを失ってしまう。
たとえば、全国のウマいもの。
そこでしか味わえない珍しいものを求めて現地を訪れる。
それを大衆化しようとして全国に販路を開き、その結果大衆化はしたが、現地には訪れなくなった。
そして衰退していく。
そんなバカな商売をしているわけだ。
土用の丑の日、大晦日、アホウ巻き、間違えた恵方巻き、そういう習慣が今でも続けられているが、それはカタチだけ真似た文化でも何でもない”商売”でしかない。
その習慣が大切だと思うのなら、スーパーやコンビニで大衆的に買うのではなく、希少性を持って取り扱うべきだ。
つまり店に行って喰えと。
高い。
だから特別な日に食べる価値が生まれるのだ。
同様に、地方の特産は、そこへ行って喰え。
だから価値があるのだ。
価値に対して対価を払うから文化や習慣が永続するのだ。
そう思うから、安価な大衆化は無用だと思うのだ。





神戸市中央区北野町2丁目9から
コメント (2)
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