Nonsection Radical

撮影と本の空間

エロ話の弱体化

2014年04月30日 | Weblog
新聞の広告で、オヤジ系週刊誌の見出しに「フランス書院」の事を取り上げているのが目についた。
フランス書院といえば、官能小説の代名詞のような出版社だ。
そのフランス書院とオヤジとの組み合わせはある種当然のことのように思われるが、書店でその種のコーナーに立ち寄るのは背徳の匂いを立ちこめているようで勇気がいるかもしれない。
その手の小説のジャンルは多種多様に分類されているようで、”ツボ”にはまるのを探すまでが艱難辛苦の道のりであるが、何ごとも道を究めるのは難しいという証しではある。
オヤジ系週刊誌にはつきもののエロ小説も、昔は連載後書籍化される”傑作”も多々あったのだが、最近はどうなのかな?週刊誌を読まなくなったのでわからん。

どちらかというとビジュアル系よりも文字系が好きで、「あたし、スチュワーデス(死語)なんです」系の明るいエロが好きな当キーボードは(当マイクロフォンのもじり)、宇能鴻一郎以来あまりヒットに恵まれない状況であったところ、インターネットという新しい媒体に出会ってから、検索につぐ検索で「検索屋ケンちゃん」の威名を取るほどになった。
そんなこんなでかれこれ20年ネットサーフィン(死語)し続けたが、どうも最近ヒットがない。
ネットでの主流は素人投稿系なのだが、どうも最近は直接的で、想像の余地のない話がほとんどだ。
読んで思わず笑うものや、ありそうでなさそうでウッフンという明るいものは少ない。
かといって、長文ではあるのだが、決して読みやすい文体でも、展開でもないダラダラ文で、人間の性とは、聖とは、生とはと深く考える文学的なものでもない。
ただ○○○を○○で○○したら、xxがxxしたという行動発表なだけである(わけわからんがな)。

以前は、シリーズものになるような人気エロ話がいくつもあったのに、どうして最近は面白いものがないのだろう。
ひとつの理由は「やりつくした」というものか。
シチュエーションが使いつくされ、手を替え品を替えしても、どうしても既読感があり、よりセンセーショナルに、より直接的に表現するしか目を引かない状況になってしまったのではないか。
また遊び心がある人が少なくなってしまったような気がする。
こう書いてみると、それはエロ話だけではなく、表現全般にいえる現象なのではと思えてくる。
それはネタ切れなのか、情熱欠如なのか、才能枯渇なのかわからないけれど、現在はそういう時代であるのだ。
いやいやそんなことはありませんよ、という御意見もあるのなら、ロンよりポン、チー、チートイツ(意味不明)、証拠となる実例を示していただければ、よろこんで老体にむち打って(SMはキライだけど)拝見させていただく所存でございます。




西洞院通から夷川通を
京都府京都市中京区毘沙門町,薬師町,東夷川町,薬屋町,橋本町,西夷川町
撮影 2014年3月8日 土曜日 13時45分
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ストック

2014年04月29日 | Weblog
今日で岡山県倉敷市の動画はオシマイ。
撮影が1月だから4ヶ月続いた事になる。
先日滋賀県と大阪府のストックがなくなったので、残りは兵庫県篠山市と京都市と長崎市だけとなる。
これで8月までもつかなぁ。
現在は8月に向けてせっせとお金を貯めるのと、長崎へ行った”負債”を返すのに四苦八苦して、どこへも出かけられない状態だ。
そこまでして「旅」に出かけたいという気持ちが不思議と言えば不思議だが、自分の目で知らない場所を見てみたいと思う好奇心をなくしてしまったら、暇な陰口ばかり言う友だちのいない陰気なジジイでしかなくなるという強迫観念が強いからではないかな。
たとえ暇な陰口ばかり言う友だちのいない陰気なジジイであっても、旅が好きだというと少しは印象が変わるじゃないのさ。
それに旅といえば、「出会い」でしょ。
どんなきっかけで前田敦子みたいな、あるいはナスターシャ・キンスキーみたいなジョシと出会いがあって、ムフムフとなるかもしれないじゃない。
近所を不機嫌そうに歩いていたって、単なる徘徊でしかなく、そんな出会いがあるわけないし。

まあ前田敦子と言っても、キンタロー。や小林礼奈でもイイんだけどさ、区別つかないし。
ナスターシャ・キンスキーでなくて加賀まりこでもイイのさ。



鶴形2丁目の街並み
岡山県倉敷市鶴形2丁目,阿知2丁目
撮影 2014年1月11日 土曜日 15時10分
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撮るのを躊躇するのは

2014年04月28日 | Weblog
目の前の景色に向けてカメラを構えてシャッターを切るだけでイイのに、なぜか躊躇して結局撮らないでいることがままある。
どうぜツマラナイものにしか写らないと”経験”からわかっているので撮らないのだけど、そんなことは撮ってみなくちゃわからないのに。
視野のマッチする画角である35mmとか28mmで特にその傾向があることもわかっている。
デジカメなら撮っても”損”はしないはずなのにケチ臭い以上に不思議な心理だ。
それでいてその画角近辺の写真を撮りたくて仕方ないのだ。
でも、他の人が撮るような切り取り方が出来ないんだなぁ。
撮ろうかと思うからには何か引っかかるものがあるはずなのに、それを”再現”出来ないので撮る気が失せるの繰り返しが、そういう心理になっているのだろう。
外に広がるような切り取り方が苦手で、小心者らしく内にこぢんまりとまとめようとするのでつまらないし、卑屈になるのだろうな。
なんとかせねばならない。
何も考えずにシャッターを切り続ければイイのだけれど、ナンパしてもどうせ断られるのだし、の精神が躊躇させるんだなぁ。
こんな事ではイケナイ。
とりあえずナンパし続けて、躊躇がなくなってから、カメラに取り組む事にしよう。
なんか順序が違う気がするが・・・





魚屋町から二階町の街並み
兵庫県篠山市魚屋町,乾新町,山内町,二階町
撮影 2014年1月6日 月曜日 13時50分
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日曜写真館

2014年04月27日 | Weblog




















稲佐悟真寺国際墓地
長崎県長崎市曙町
撮影 2014年3月23日 日曜日 12時05分
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規模の呪縛

2014年04月26日 | Weblog
仕事先に見積もりが寄せられたのだが、あまりにも少量でどこも引き受け手がないという。
たとえばの話、10センチ長さの糸が欲しいと言われても、5グラムの塩が欲しいと言われても、最低量はもっと多いので、1巻き、あるいは100グラム仕入れて小分けするしかないのだが、10センチ分、5グラム分の費用しか払えないと言われるとどこも受け手がないのは当然だろう。

しかし世の中は大量にモノが売れる時代ではなくなっている。
少量を売って利益を出す事を考えなければならない時代だ。
昔、オリンパスがあるカメラの製造を中止した理由が、最初に大きな製造ラインを作ってしまったので、売れなくなってきた時に少量を作るのでは採算が合わなくなったからだという話を聞いた。
日本の企業は大量生産で会社の規模を拡大してきた。
家電も自動車も食品もそうだ。
どこの会社も立派な大きな工場を持つようになった。
ところが時代が変わって、大量生産しても売れなくなった時に、少量を作る事が出来ない環境になっている。
赤字でも作り続けるか、製造を止めるかの選択しかない。

一方で、この何十年かの”不況”によって、中小企業の仕事の多くが海外に移されて、零細企業は廃業するところが増え続けた。
その海外への仕事も発注量の減少によって受けてもらえないか、少量すぎて海外で作るメリットがなくなるようになった。
そのような“ハンパ”な仕事が国内に戻ってくるようになったが、上記のように少量でも受けてくれていた零細企業はなくなってしまったのだ。
多品種少量生産などという言葉は何十年も言われ続けてきたが、時代は少品種少量生産へ移って来たのではないか。
しかし、大企業でそんな事は出来ない。
多品種であろうと少品種であろうと、大量に作らなければならない規模になっている。
大量に作れなければすべてをやめるの繰り返しで、良い言い方だとリストラ、悪い言い方だと竹の子生活が企業の生き残りの方法になっているのでは。

こんなものが欲しいという個別の希望を大企業が聞いてくれる時代でもなく、小回りの利いた小さな会社がそうそうあるわけでもない。
購買者の嗜好はドンドンと個別化されている。
それに対応出来る方法はあるのか?

そういう時代には、みんなが同じものを欲しがるように思想統一した方が簡単なのかもしれないな。
この国なら出来る気がするけど。




衣棚通から夷川通を
京都府京都市中京区花立町,竪大恩寺町,泉町,弁財天町,二条新町,亀屋町,大黒町,­毘沙門町,薬師町
撮影 2014年3月8日 土曜日 13時40分
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